-翻訳試案(29.09.2022版)-

 

フリードリヒ・ニコライ(編)『フリードリヒ大王の逸話』より

「音楽家クヴァンツについて」(1792年)

​翻訳:田中伸明 

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フリードリヒ2世のフルート教師で、彼の忠実な音楽的伴侶であった有名な音楽家クヴァンツは、〔当時の〕ポーランド王〔アウグスト2世〕が〔プロイセン〕王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世を訪ねた1728年5月に、はじめてベルリンへとやって来た。彼は、小さな楽団を持っていた〔当時のプロイセン〕王妃に演奏を披露した。皇太子〔フリードリヒ〕はフルートを習うことに興味を示し、王妃はその傾向を好ましく思われたので、彼女の楽団に800ターラーの俸給で伺候することを提案した。しかし、ポーランド王はクヴァンツを手放そうとされなかったので、彼はこの提案を受け入れることができなかった。ポーランド王はその代わりに、〔プロイセン〕皇太子にフルート演奏を教えるため、年に2回ベルリンへと旅行することをクヴァンツに許可なさった。最初の〔1728年の〕滞在の時から既に教授は開始されており(原注1)、その後も皇太子はフルートの練習を熱心に続けられた。クヴァンツが〔フルート教授をする〕ためのベルリン旅行は、とりわけその当初、つとめて秘密裏に行われなければならなかった。〔父であるプロイセン〕王は当時、彼の若き皇太子を単に軍人とすることにしか興味がなく、よく知られていた通り、音楽のような甘美な喜びをお認めにはならなかったので、〔皇太子のフルート習得について〕王は何もご存知であるべきではなかった。

(原注1)ポーランド王は随行員らとともに、1728年5月29日にベルリンへとやってきて、6月12日まで滞在した。

 

皇太子が密かに英国へ渡られようとし、その後の悲劇的な顛末で知られる〔きっかけとなった〕国王とのヴェーゼルへの旅行の少し前の1730年夏、クヴァンツもまたベルリンにいた。早い時には朝6時から、しかし通常は毎日午後4時から7時ごろまで、皇太子とフルートを演奏するためである。国王と皇太子の不和はこの時すでに非常に大きく、王子は当時、だいたいのことにおいて、彼の父とは反対のことをなさるようにしていた。午前中、王子は見た目には静かにしていなければならなかった。窮屈な制服、飾り気のない縮毛に固められたお下げ髪、そして肩張った軍隊〔式〕歩行は、彼の趣味では全くなかったが、〔とりあえずは〕それに順応しなければならなかった。午餐の後自室に戻ると、皇太子は自分のやり方で生活したいとお望みになった。それゆえ彼はよく、当時の流行に沿って髪型を整え〔なおし、〕リボンで後ろ髪を束ね、金襴刺繍のガウンを羽織られた。その格好で彼は学修され、フルートを吹かれた。

 

そのような格好でいらしたある日、皇太子がクヴァンツとフルートを吹いている部屋へ、彼のお気に入りでのちに不運な目に遭うフォン・カッテ氏が飛び込んできて、王がすぐ近くまで来ていることを怯えながら伝えた。皇太子の書物と音楽への愛着傾向は、王に完全には隠しきれていなかった。それらは王にとって忌々しいものであり、彼は皇太子を驚かせるつもりでおられた。カッテは大急ぎでフルートと楽譜を箱にしま〔って抱えながら、〕最も怯えていたクヴァンツをもう一方の手で掴んで、彼とともにストーヴ焚きのための小部屋へと飛び込んだ。彼らはそこに1時間以上も居続けなければならなかった。また、これはクヴァンツ自身が私に語ってくれたことであったが、彼は赤い上着を着ていたこともあって、より一層体全体を震わせていたのだという。赤は王が嫌っていた色だったのだ。〔一方の〕皇太子は大急ぎで制服に着替えられたが、髪留めのリボンはすぐには取り外せず、集まりに混乱が生じた〔のを取り繕っているで〕あろうことは、容易に推察される状況だった。王は間も無く、タペストリーの後ろに隠された本とガウンが入れられた戸棚を見つけられた。ガウンについては直ちに暖炉へと投げ捨てられたが、本に関してはハウデ〔氏〕の本屋に買い取るよう、王は命じられた。この本屋は、皇太子にふたたび図書室〔の利用〕が許されるようになるまでそれらの本をとどめ置き、皇太子は必要なものを個別にそこから借り出させた。

 

王が去った後、クヴァンツはその〔狭い部屋の〕片隅から解放されることとなった。その後彼は、ベルリンへの旅行並びに滞在の際、非常に気をつけるようになった。特に、赤の上着はもう決して着用せず、グレーか青のみを着用するようになった。

 

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フリードリヒ2世は王位に就かれると、クヴァンツをとても有利な条件で雇い入れられた(原注2)。彼はただ〔王の私的な〕室内楽でのみ演奏すれば良く、オーケストラでの〔演奏義務は〕なかった。王のために彼が作った作品やフルートには、別に褒賞が支払われた。王に雇い入れられて以後、クヴァンツはただ王のためだけに作曲した。彼は300曲のフルート協奏曲を作曲したことが知られているが、そのほとんどは王が即位して以降に作られたものであろう。これほど多くの協奏曲を一人の愛好家のために書き続けるというのは、およそ容易な仕事ではない。しかもその愛好家とは、国王なのである。こうしたことは、クヴァンツの音楽的着想の豊かさの証明となるだろう。これらの協奏曲は、一つ一つが独特な性格を持っている。〔一方で〕走句の中には、クヴァンツが王のために施した〔、変化のない〕一定性が見られる。これは王が、新しく馴染みのないものを嫌われたためである。

(原注2)〔『逸話集』〕第3巻、321頁も見よ(【訳註:以下に該当箇所を訳出する; 彼は2000ターラーの年俸を、そのほかの自由とともに得た〔=これは、宮廷楽団内での演奏義務から解放されていたことや、王以外の誰の命令に服する必要はないとされたことを指しているのだろう〕。その他に彼は、新たに作曲した協奏曲一つにつき100ドゥカーテン、ソロ・ソナタ一つにつき5から20ドゥカーテン、王のために製作するフルート一つにつき100ドゥカーテンを〔年俸とは別に〕受け取った】)

 

彼のフルートのための作品と、〔カール・フィリップ・エマヌエル・〕バッハのクラヴィーアのための作品は、器楽のために書かれた作品として、もっとも学識深く完成されたものであり続けている。そしてバッハは、自らの楽器と共に使われる他の楽器や弦楽器による伴奏についてなど、多くのことに関してクヴァンツほどには深く追求しなかった。とりわけバッハは、クラヴィーアの機構的長所並びに不完全性についてあまり考慮せず、とりわけ後者を補おうとすることについては、更に無頓着であった。〔一方で、フルートのそうした短所を補う〕可動式の頭部管や二重鍵、独自の作孔を通じてより正確に整えられた調律は、クヴァンツの発明である。低いピッチこそフルートに最適であるという前提のもとでは––無論彼はそれを疑いない前提としていた––クヴァンツほどフルートを完璧に取り扱った者はいない。今日ではしかし、おそらくは誤解からであろうが、この見解はもはや支持されていない。

 

音楽における趣味とそれに関わる演奏様式は、心を喜ばせる美しい花のようだが、まもなく枯れてしまい、再び花開くことはない。そしてそのうちでどれだけのものが、豊かな実りをもたらすだろうか。音楽における趣味はこれまで概ね20年ごとに、もしくはもっと早く変容してきた。これは昔からそうであったし、これからもそうであろう(原注3)。後世のために作曲しようと企図する者の多くは、「未達の手紙」を書かざるを得ないという危険に直面する。〔時代を経てもなお愛好されるという〕例外は少なく、器楽作品、とりわけ室内楽作品については、ほとんどその例外を見つけることができない。時には、もっと長く愛好されて然るべき作品も殺されてしまう。クヴァンツ式の低いピッチは、もはや用いられないだろう。そのピッチと共に、クヴァンツ式のフルート、彼の協奏曲、そして真の演奏様式は、書き留められることなく失われていく。今日のベルリンに、この演奏様式に通じている人間は、もう三人と残っていないだろう。ドイツでは、ロンドンで〔あるような〕「古き音楽」の演奏会はないし、そうしたものを開くことは困難だろう。幾人かの思考的で熟考するような音楽家たちにとって、昔の音楽というのは関心を惹くものである。クヴァンツの協奏曲はそうした意味でも、少なくとも自らの芸術を愛する作曲家たちからは、忘れられるべきではない。美しい着想の数々を〔たとえ〕考慮せずとも、彼の協奏曲はその総譜だけでも、十分学ぶに値する。室内楽用の協奏曲における伴奏様式という点において、クヴァンツの協奏曲には他者のそれに比べてより多くの豊かさがあり(原注4)、それは十分学ばれるに値するものである。〔実際に〕クヴァンツの協奏曲を毎日伴奏していたバッハは、形式的観点では多くを彼〔の作品〕から身につけている。バッハは〔しかし、形式面での洗練については〕自らの功績も自認するところがあった。両者は実際、あまり親しくなかった。

(原注3)リンプルク市並びにその献酌侍従の年代記中1360年の記述で、このように言われている。「吹奏音楽においてもそうであるけれども、今までのような具合で良いわけではないのに、今日では許されると言ったことが、〔典礼などの場における〕音楽においても起こっている。5, 6年前にはよい笛吹きであったのに、いまでは〔その流行から〕逃げることができず〔、時代の流れに取り残されている。〕

(原注4)〔『逸話集』〕第3巻、253頁も見よ。

 

クヴァンツはその界隈においては独裁者であった。彼の音楽芸術に対する真に多様な洞察を用いたいと思う者は、彼に反抗すべきではなく、むしろその着想に従うようにするべきであった。そしてこれは、全ての者に受け入れ可能なわけではなかった。時には王自身も〔、彼に反抗なさるような〕ことがあった。もっともクヴァンツは廷臣であり、宮廷でどう振る舞うべきか、また大王にどう接するべきかについて、長年の経験からよく知っていた。王に不従順な態度を取ることはそれゆえ、彼の企図したところではなく、むしろ王が不機嫌になられるであろうことを正しく避けようとしていた。だが、話が音楽のこととなると、彼は王に容易に譲歩せず、むしろ〔誤りを〕他者にもわかるようにするなど(原注5)、同意を得難い仕方で〔誤りを伝えた〕。室内楽においてクヴァンツは、王が演奏した時、優先的にブラヴォー!と言う権利があった。彼はこの権利を名誉なことだと思っていたし、滅多に言わないというわけでもなかった。だが王が、彼の協奏曲を想定外のやり方で演奏したり、滅多にないことではあったが、クヴァンツが不機嫌な表情を見せていたりするときは、ブラヴォー!が言われることはなかった。王がそのことに気づかれ、王の演奏の中に誤りがあることをクヴァンツが意図した場合、王は、特に最初の頃にはクヴァンツに尋ねたりされながら、誤った箇所を見つけ、何も言わずにその箇所を練習し、伴奏などをつけることなく、クヴァンツが文句なしにブラヴォー!と言うまで、演奏の順序に反することとなっても(原注6)、演奏を続けられた。それは、クヴァンツが王のことをよく理解しているということを、ことさらに示すためのものでもあったのである。王がクヴァンツに問いかけない限り、クヴァンツは決して王〔の演奏を〕咎めることはなかった。〔音楽的に厳しい〕叱責が〔たびたびあったとする〕ような、いくつかの書籍に見られる逸話は、全てでっち上げである。〔普段は〕静粛を保ち、時に咳払いをすることを通じて問題を伝えようというのが、クヴァンツが自らに許したことであっ〔て、これより過剰になることは滅多になかった。〕クヴァンツが〔王の〕コンサートで毎日彼を長年にわたって見ている中で、両者の間に不和が生じたのは、ただの二度だけである。それは、以下のような機会に起こった。

(原注5)〔『逸話集』〕第3巻、257頁も見よ。【訳註:当該箇所を以下に訳出する; 七年戦争の前、国王は室内楽で、彼の〔作曲した〕ソロ〔・ソナタ〕をまだよく演奏していた。あるとき、王が新しいソロ〔・ソナタ〕を初めて演奏した際、幾度かの移調の後に置かれたある楽章の中に、明らかな平行五度が何箇所かで見られた。その音楽的正統性に関してあまり寛容とは言えなかったクヴァンツは、幾度か鼻をかみ、咳払いをした。その点幾分か繊細ではあったが、そうしたことを見過ごすことはやはりできなかった〔エマヌエル・〕バッハも、ピアノフォルテでの伴奏の際、その五度がはっきり聞こえるように〔演奏した〕。他の者たちは、目を伏せていた。王は何も言わずに彼のソロ〔・ソナタ〕を調べ、まもなく〔問題の〕箇所を見つけた。数日後、彼はその箇所をクヴァンツにではなく、フランツ・ベンダに見せて、四つの目で〔観察し〕、この楽章が本当に〔理論的に〕間違いなく書かれているかどうかを、ベンダに尋ねた。王はベンダの助けを借りながら〔問題の〕箇所を修正し、続けて〔こう言った〕。「クヴァンツの風邪をうつされないように、私たちは気をつけないといけないようだね。」このことは、亡き楽師長フランツ・ベンダが、私に直接語ってくれたことである。】

(原注6)王は、作曲順に並べられたクヴァンツの300曲の協奏曲全てを、通常通りに演奏なさることが常であったが、時にはその順序から逸脱することもあった。

 

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既にドレースデンにおいて、クヴァンツはフルートにおける純正な調律法に関して、多くの試行錯誤を重ねていた。彼はこの楽器において、純正〔に調律して〕演奏するのが難しいということを、よく知っていた(原注7)。この問題を解決するために彼は、自らのフルートを、細心の注意を払いながら最良の木材から(原注8)くり抜〔くところから始め、〕その後にピッチを厳密に設定し、穴は自ら作孔した。そうした〔試行錯誤の〕のちに彼は、フルート〔が木材の段階であるとき〕からよく調律され、〔乱れずに〕保たれたものとすることに注意を払わなければならないと主張するようになった。

(原注7)あるフランス人音楽家はこう言った。「二本のフルートは、まるで男と女のようだ––決して同じになることがない【訳註: 本引用はフランス語で記載されている】」

(原注8)王はクヴァンツにしばしば、まだ〔フルートの材木としては〕知られていないさまざまな種類の硬木を下賜された。クヴァンツはその全てを試し、黒檀が最も優れていることを発見した。黒檀の中でも彼は区別を行い、フルート〔の材木としての〕利用可能性を追求した。クヴァンツが私に保証したところによれば、1766年にポルトガルからもたらされ、王から贈られた黒檀の幹が、それまで手に入れられたものの中で一番良かったであろう、ということである。

 

王にまだ活気があった1740年代のある時、彼はクヴァンツから新しいフルートをお受け取りになった。王はそれをあまりお気に召されず、幾度か演奏した後クヴァンツに対し、このフルートは純正に調律されていないとおっしゃった。それはクヴァンツが最も注意を払っていたことに対して〔言われたことであったので、これは〕クヴァンツにとってある種の打撃であった。内心でクヴァンツは怒っていたが、彼は自らのフルートを弁護した。〔その後〕王は満足したかのように見えた。しかし翌日、王は同じ不平を繰り返した。クヴァンツは王の手からフルートを取りあげ、自ら演奏してみせ、全ての音の調律に狂いがないことを証明した。王は、クヴァンツ自身の演奏もまた調律が狂っているとおっしゃった。これはクヴァンツにとって耐え難いことであり、彼は冷静さを失った。いくつかの短い会話を交わしたのち、ついにクヴァンツは激情に駆られながらこう言った。「ある偉大な紳士にもし、真実を聞く勇気がおありになるとするならば。陛下はまもなく、〔この問題の根源が〕フルートにあるのではなく、どこにあるのかをお知りになるでしょう。」王は数歩後ずさって、「何だと?朕にその真実は耐えられぬというのか?はっきり申せ」とおっしゃった。クヴァンツは冷淡に、また不機嫌な調子でこう続けた。「私は陛下に、フルートを演奏された後は手に持ったままにしたり腕に挟んだりせず、机の上に置くようにと再三ご忠告申し上げました。陛下はしかし、その習慣を続けておられる。フルートが不均衡に温められてしまうために、調律に狂いが生じるのです。フルートそれ自体の調律が狂っているわけではありません。」王は非常にお怒りになり、「そんなわけはあるまい!」とおっしゃって、踵を返して去っていかれた。

 

その後数日間、王は他のフルートを演奏されていたが、彼はクヴァンツをご覧にならず、会話もなさらなかった。クヴァンツもまた、王にブラヴォー!を言うことはなかった。こうしたことが8日間ほど続いた後、王はクヴァンツに室内楽の始まりの際近寄られ、友好的にこうおっしゃった。「親愛なるクヴァンツよ。朕はここ8日間、様々な方法でそなたの〔新しい〕フルートを試してみて、そなたのいうことが正しかったと気づいた。今後はもう、フルートを手中で温めることがないようにしよう。」この話は、クヴァンツが私に自ら語ってくれた。取るに足らないことのように感じる〔読者もいる〕かもしれないが、〔両者の〕性格をよく現しているといえるのではないだろうか。主人〔である王〕に向かって堂々と真実を主張するというのは、滅多にないことであるし、それに対し王がどう振る舞われたのかというのは、彼の心根〔の誠実さに〕多分に帰せられるといえるだろう。

 

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1760年代に、このようなことがあった。絵画館の方からサンスーシ〔宮殿〕に上がる傾斜路の左側に、人工洞窟によって道が塞がれている場所があったが、そこで保護策の役割を果たしていた壁に対して馬車が進行し、その一部が落下するということがあった。客車が落ちたのようにも思われたが〔、実際にはそうではなかったので〕恐れることはなかったのだが、〔C. P. E.〕バッハは道中そのことに怯えていたので、王の側近に、もうすこしで危うい目に遭うところだったと話した。偶然にもその後しばらくして、音楽家たちがサンスーシ〔宮殿〕へと〔馬車で〕向かっているとき––王の馬車もその近くにいたのだが––客車が幾分か不安定な動きをしたために、バッハは落ちてしまうと思って大声で叫び、サンスーシ〔宮殿〕へついたのち、欠陥のある場所を早急に補修すべきだとする抗議を猛烈に、また改めて行った。応対した〔王の側近〕は、工事関係は彼の仕事の領分に属しておらず、そのことに関して王には何も伝えられないと言った。また、その欠陥がある〔とした〕場所についても、実際に危険はないだろうとも言った。だがバッハは、もし事故が起こっていたらと考えて、王に直接このことを伝えるか、書き送って伝えたいと思った。この件にはクヴァンツも干渉してきて、激しい論争の原因となった。クヴァンツは、反論されてもなお冷静さを失わないといった人物ではなかったので〔、その論争中〕感情的で品位にかける語が、いくつか飛び交った。

 

このことは王に報告され、あわせて彼らの表現や論争のあり方も、ぼかされることなく伝えられたようである。不注意な運行によって欠陥のある地点で事故が起こってしまうかもしれないというのは、嘘ではなかったが、王は音楽家たちがその修繕を要求したことを不快に思うには、あまりにも公正な人物であられた。それでも幾分かはわだかまりを覚えられたようで、それを王は次のような、誰も想像していなかったやり方でお示しになられた。誰にも何も言わず、王は室内楽の開催をお命じにならなかったのである。これは極めて異例のことであった。なぜなら王は毎日室内楽を部屋で開催なさるのが常であり、その習慣は変わることなく続いてきたからである。〔室内楽の中止〕は病気か、もしくは重要な行事の開催の際にのみありえることだった。王は、自らから楽しみを奪う代わりに、〔胸中に抱いた〕わだかまりを行動を通じて示す必要があるとお考えになった。王は、人心に非常に通じておられた。音楽の中止について、音楽家たちはかなり狼狽えており〔、件のことについて大声で話していた〕バッハとクヴァンツの両者はなおさらであった。クヴァンツはまた、ある偶然の状況によって、さらに思い悩まされることとなった。王は自らの知らない、とりわけ管楽器の音楽家の演奏をお聞きになることは、普通なかった。その管理も、クヴァンツが行っていた。ちょうどそのとき、ドレースデンの優れたオーボエ奏者のフィッシャーが王に連絡を取り、王はその演奏を称賛なさった。その演奏はピアノフォルテによって伴奏されたものだったが、その場にバッハは呼ばれなかった。室内楽の中断は、王が8月のシュレジアにお出かけになるまで続いた。シュレジアからお戻りののち、室内楽は再び、以前の諍いに関して触れられることなく、毎日開催されることとなった。音楽家たちも再び、自由な空気を吸えるようになったというわけである。

 

クヴァンツはこの室内楽が開催されていない期間、努めて冷静に振る舞っていた。実際彼は、王がこのまま慈悲をお示しにならず、離職を言い渡すおつもりであったとしても、自分にとってはどうでも良いことだ、と口外していた。彼は〔すでに〕相当裕福であったし、そのまま年金生活を送ることになっても良いと思っていたようだ。しかし根本では、彼は王に〔ひきつづき〕仕えたいと思っていたし、王に毎日会うことができ、王の信頼する室内音楽家であるという長年にわたって享受してきた特権〔的事実〕を、手放したくないと考えていたようだ。彼が〔この〕数ヶ月後に、友人のクラウゼ(原注9)にこの話を事細かに説明した際、彼はこの〔事件が〕無事解決されたことに喜びを隠さず、心からこう言った。「私にとって、彼(クヴァンツは王のことを意味していった)がここまで重要な人物だったとは、〔この一件がなければ〕思い至らなかったことだろう!」〔以上の話は、〕クラウゼ〔による報告をもとにした記述である。〕

(原注9)シュレジア地方に生まれたクラウゼは、クライスト、ラムラー、ズルツァーの友人であり、弁護士であった。彼は音楽に多くの才能を示し、良い合奏ヴァイオリン奏者、思慮深いオーケストラの統率者であり、また作曲家としても決して軽視されるべきではない人物であった。彼は音楽的詩作に関する良書の著者でもあり、この本は1752年、彼の名を冠することなく出版された。まだベルリンで公開演奏会が催されていなかった七年戦争中、ならびにその後も、彼は良い音楽を聴くための私的な演奏会を、毎週水曜日に開いていた。この演奏会でクヴァンツはcon amoreで、その都度2、3の協奏曲を演奏するのが常であった。彼は王の御前並びに自宅以外で演奏することは通常なかったので、これは彼の演奏を聴く唯一の機会であった。私はそこで、彼が自らの協奏曲の大部分を演奏するのを聞いたのだった。【訳註: con amoreは楽想用語で、愛を込めてなどと訳することができるだろう。】

 

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キルンベルガーは、ベルリンの音楽家たちにとって長年悩みの種であった。特にクヴァンツのことをいつも冷やかしていたことで、両者は常に反目しあっていた。音楽的な功績のある人々に対し、彼はやりたい放題吹聴した。クヴァンツとキルンベルガーは(原注10)、対位法に関して常に争っていたのだが、クヴァンツ本人も対位法にはよく通じた大家であった。クヴァンツがフルート二重奏曲を出版した際、この争いはさらに激しさを増した。クヴァンツは、二重奏曲における二声は、聴覚に対し第三声部やバス声部を要求することなく〔、それだけで完結した状態で〕作曲されなければならない、と以前から正しく主張していた。それに対しキルンベルガーは、クヴァンツの二重奏曲は追加の第三声部なしでは〔音楽作品として〕成立し得ないものであると吹聴して回った。クヴァンツはこのことに憤慨して、キルンベルガーに対し次のよう〔な申し入れを〕書き送った。2ヶ月の間に6つの二重奏曲すべてに自然で適したバス声部を付し、それが二声での〔元来の状態に比べ〕より耳を満足させる内容に仕上げることができるかどうかに挑戦すること、そしてその完成度に関しては、ベルリンで第一級の音楽家たちが審判を下してくれるだろう〔、という内容のものだった〕。キルンベルガーは、要求された通り作品全てにわたってバス声部を付すということに幾らかの困難を感じたようである。非難したものを改良するということは、実際にはほとんど彼の領分に属することではなかった。そんな中で彼は、クヴァンツが日曜日、ある決まった教会に礼拝へ行っていることを知った。彼はその教会に行き、事情を知らないそこのオルガニストを追い出して、聖体拝領の最中に、二つの鍵盤上でクヴァンツの二重奏曲から短いアダージョを取り出して、ペダルでバス声部を付しながら演奏した。クヴァンツはこのことで我を忘れ、怒りのためほとんど病気となった。腐敗ない道徳的感情の持ち主ならば、礼拝をこのような形で妨害することがいかに陰険なことであるか、よくわかるだろう。だが同時に、このようなことで過剰に心が乱されるほど、人は弱くあるべきではないとも言えるかもしれない。〔以上の話は、〕クラウゼ〔による報告である。〕

(原注10)キルンベルガーは音楽に関して、和声的な側面だけでなく、それがもたらす効果に関しても多様な洞察を有しており、それ〔を支える〕優れた理論的概念も有していた。しかしそれら〔出来上がった作品を〕演奏するということについて、彼は考えておらず、そのことについての才能もあまり十分に有していなかった。彼は良い音楽を生み出すことにではなく、〔ある他者の音楽における〕欠点を見つけ出したり、欠点のある〔音楽〕家を見つけて言いふらしたりすることに、大きな情熱を感じていた。彼は自らの作品を演奏するとき以外は、演奏実践面における才能を全く示すことができず、とりわけ拍節感が欠如していた。

 

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クヴァンツの芸術的感性は、時に彼をちょっとした珍しい体験へと巻き込んだ。ベルリンにいた時、彼はペトリ教会で行われる午前の説教をよく聞きに行っていた。その場にはよく靴職人も来ていたのだが、その人物は歌が中断する際、他の会衆よりも長く声を保ち、しかもその後いつも声を高く引き上げるという困った慣習〔とともに歌を歌っていた〕。クヴァンツの耳はついにそれに耐えきれなくなり、彼はその靴職人を説得することを通じ、その困った慣習をやめさせることができると考えた。クヴァンツは彼を来させて、自らが王からもっとも重用されている音楽家であることを言って自身の権威を印象づければ、歌唱の際に声を保つ彼のやり方は全く適当でなく、音楽的でもないことを暗に示すことができると最初は考えた。靴職人はしかしとてもそっけなく、音楽に関して自身は何も知らないこと、そして歌の中断の際に音を伸ばすのは、そうすることによって祈りをより深くできると思っているからだ、と言った。クヴァンツはそこで、彼の気になる歌い方は他の会衆の祈りを妨げることになるかもしれないと伝えようとした。しかしその靴職人は、そのことについて聞くことを望まず、自分の祈りが他の会衆を妨げるというなら、その会衆とはどんな人々だというのか、と応じた。クヴァンツは、この男性をこうした方法で〔説得す〕るのは無理だろうと考えて、他の方法を試した。彼はその靴職人に親切さを示し、〔あくまでも、しかし〕確かに自らの祈りがその歌い方によって妨げられるであろうことを伝えて、〔相互の〕友好のためにもその歌い方をやめて欲しいと提案した。〔そうすれば〕クヴァンツは、靴職人に対して再び友好的になることができるし、また、とても良い仕事人だと聞いているので、いずれ靴を作って欲しいと思っていること、またいくつかはすぐに調整して欲しいと思っていることも伝えた。靴職人は落ち着き払って、「喜んで!しかしあなたが、私が自らの祈りを客のために売り渡すと思っているなら、私は計測のための紙を〔、あなたには〕一枚たりとも使うことはできませんね。」と言った。結局のところ両者は噛み合わず、歌はそのままとなり、クヴァンツもまた、靴職人を変えることはなかった。〔以上の話は、〕アグリーコラ〔による報告である。〕

 

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王は全ての事柄、最も細部に渡ることに至るまで、秩序通りで慣習に背かないことを是とされた。一度為されたことが〔慣習化されないことを、王は〕容易にはお認めにならなかった。どうやっていたか私は知らないのだが、クヴァンツは毎年秋になると、ライプツィヒから王に宛てて雲雀ヒバリ(原注11)を送らせていた。これは実際、かなり珍しいことであった。王が私的に贈り物をお受けになることは、滅多になかったからである。雲雀を調達するため、クヴァンツは独自の枠組みを持っており、その仕事を長年ライプツィヒのある商人に頼んでいた。その商人が死んだのち、クヴァンツは私に、ライプツィヒのミカエリス市場で、可能な限り早く王のために綺麗な雲雀を調達できないかどうか、問い合わせをしてきた。彼はしかし、毎年引き続きその〔調達の〕必要があることを、はっきりとは示さなかった。そこで私はその翌年の秋、特に何の準備もせずにいた。〔秋になっても〕雲雀がやってこないことにクヴァンツは動揺し、王もそれにお気づきになった。古くからの臣下〔の王に対する態度が〕ぞんざいになり、注意が向けられなくなったとお考えになったかもしれない。彼はそのことを〔彼の室内楽〕コンサートの後で、すでに長く〔王の音楽家であった〕楽師長のフランツ・ベンダと談笑している際に話題にし、今年はライプツィヒの雲雀が少ないということを、そなたも知っておろう、とさりげなく言われた。ベンダは、王がどうしてライプツィヒの雲雀を話題にしたのか理解することができなかった。クヴァンツはしかし〔、話の文脈を〕よく理解したため、少なからず当惑し、私に相談をしてきた。この〔実際には〕誤解から生じた良くない〔状況を〕打開するため、私はクヴァンツに、〔シーズン中〕最後に獲れる雲雀を王へ送ることを提案した。もはや誰も雲雀のことを考えなくなった11月、王は雲雀をお受け取りになった。王はそれを非常に喜ばれ、口頭でもクヴァンツに感謝した。その後1773年に死去するまで、クヴァンツは私を通じて毎年、どこの誰よりも早く雲雀を手に〔し、王へ贈る〕こととなった。

(原注11)王は、食卓にもたらされることになる雲雀たちを〔、それまでは〕ナウエンの近くに囲っておかれた。基本的に小麦が育つ場所では、雲雀は至る所で見られたからである。〔ところで、〕よく知られている通り、王は狩猟を好まれず、興味を示されたこともなかった。だがそれにも関わらず、王は長い治世を通じ、先王の時代から受け継がれてきた多くの高価な狩猟道具を、多大な注意を払って保管させておられた。それらの狩猟道具は最初ベルリンの狩猟用庭園に置かれていたが、そこに銀行が設置されることになると、まもなくそれらはグリューネヴァルトに置かれた狩猟館に移された。その道具に対しては定期的な維持作業が必要であったため、その任務が管理人一名と狩人七名に、当地での宮廷職務とともにあてがわれた。狩人たちには、10月ごろにナウエン周辺に行って王の食卓のために雲雀を捕獲してくる以外に、狩の任務はあてがわれなかった。また、ノイマルクや西プロイセン地方を大きな寒波が襲い、ポーランドからオオカミや他の野生動物が〔プロイセン領内に〕入ってきたような場合にも、彼ら狩人は道具を持って当地へと〔狩猟へ〕出かけ、野生動物たちを捕えた。