-翻訳試案(08.08.2020版)-

 

ヨハン・アダム・ヒラー(編)

〔かつての〕プロイセン王室宮廷楽長、

カール・ハインリヒ・グラウン〔の経歴〕

​翻訳:田中伸明 

〔かつての〕プロイセン王室宮廷楽長、カール・ハインリヒ・グラウンは、1701年、ザクセン選帝侯国の領地であるリーベンヴェルダ管区の小都市、ヴァーレンブリュックに生を享けた。父のアウグスト・グラウンは同地の税務署長で、仕立屋〔の家庭に生まれた〕母は、エルスターウェルダの出身であった。

 カール・ハインリヒは、三兄弟の中では一番年下であった。最年長の兄であるアウグスト・フリードリヒは、メルセブルクの大聖堂および都市カントルを務め、1771年に亡くなった。二番目の兄で、のちにベルリン〔に置かれたプロイセン王室宮廷楽団〕でコンサートマスターを務めたヨハン・ゴットリープ・グラウンは、優れたヴァイオリン奏者として、また劇的な器楽作品の作曲家として著名であったが、〔兄と〕同様、1771年に亡くなった。この三兄弟は、すでに幼少期から音楽に対して格別の意欲と才能を示したので、〔彼らの〕音芸術と歌唱芸術の最初の基礎はすでに、その境遇が許す限りにおいて、故郷の街で形作られた。二人の弟たちはその後すぐに、父によってドレースデンへと行かされ、いわゆる十字架学校へと通わされることとなった。その学校には36名の若者が集まり、彼らはみな、歌唱の才能に恵まれ、音楽をよく理解するべき〔運命を持つ〕者たちであった。無償で住宅と食事、授業が提供されるという形で彼らは奨学金を受け、卒業時まで貯め置かれる形で、毎年数ターラーの給与も支払われた。彼らはアラムニと呼ばれて二つの合唱隊に分けられ、三つの合唱隊からなる少年合唱団とは区別されていた。

 だいたい1713年ごろ、二人のグラウンはこの〔聖十字架教会〕学校へ〔と通うため〕ドレースデンへとやってきた。弟の〔カール・ハインリヒ〕の方は、Ratsdiskantist(訳語検討)として採用され、〔後に〕オルガニストとしてノルドハウゼンで死去したクリストフ・ゴットリープ・シュレーターと交際があった。

 この学校の当時のカントルは、グルンディッヒであった。彼は作曲家ではなかったが、若者への教授、また良い教会音楽作品の選択と演奏において、極めて才能豊かで几帳面な人物であった。彼は〔かつて〕テノール歌手として王室宮廷楽団に在籍していたことから、優秀な歌手でもあった。グラウンはそういうわけで、歌唱に関する良い教授を受ける機会に恵まれたのである。彼はまた、当時の福音主義宮廷教会のオルガニストである〔と同時に〕王室宮廷楽団の鍵盤楽器奏者であり、大変素晴らしい教会音楽作曲家であったクリスチャン・ペツォルトから特別な監督と教授を受ける機会〔にも〕恵まれた。このふたつの教授の成果は、まもなく示されることとなった。若きグラウンは鍵盤楽器演奏における熟練と、良い快適な歌唱様式とによってすぐに、ほかの共学者に比して抜きん出た存在となったのである。

 彼は若い頃から、歌唱のみならず〔楽器演奏、作曲といった〕音楽活動全般において、快適さと甘美さへの特別な素質を示した。それゆえ、あらゆる国々の作曲家のうちでも、最も素晴らしく旋律〔的作品の作曲に優れた〕作曲家であった、著名なラインハルト・カイザーによる印刷された声楽作品は、彼にとても強い感銘を与えた。そうした作品の中でも彼は、素晴らしいドイツ語によるいくつかのカンタータから構成されていた「musikalische Landlust」を、度重なる通唱をとおしてほとんど暗記してしまうほど〔熱心に〕学んだ。このカイザーの作品中に溢れていた美しく心を打つ旋律は、大いなる探究心によってそれをまもなく自らのものとしたグラウンに対してだけでなく、当初ハンブルクでカイザーのオペラを歌っていたハッセに対しても、彼らの感覚をより優れ、またより強固なものとして、両者がその後そうしたように、各々の天分に応じ作曲へと取り組むに際し最初のきっかけを与えたものであったということを、人は正当性を持って主張することができるだろう。

 グラウンの声域がテノールへと移った後も、彼は予定通り〔十字架〕学校で勉学を続け、作曲への大きな情熱を示した。和声的作曲法と〔声部が〕交錯する〔対位法的〕書法〔を学ぶ〕という観点から彼は、当時のポーランド王室宮廷楽長で、作曲という点については議論の余地のないほどの功績を残しているが、歌唱は多分に無味乾燥でぎこちなかった、ヨハン・クリストフ・シュミットの教授を受けた。

 1719年、グラウンは音楽的知的探究心を、とりわけ歌唱芸術の観点から、長所とともに満足させることとなった、ある新しい機会を得た。選帝侯皇太子の床入りの儀に伴って、ドレスデンでいくつかのオペラが上演される機会があり、それらは著名なヴェネツィアの宮廷楽長アントニオ・ロッティによって作曲され、その上演に際しては楽長の妻であったSanta Stella Lotti、Vittoria Tesi、Margherita Durastanti、著名なFrancesco Bernardi Senesio、Matteo Berselliやそのほかの素晴らしい歌手たちが呼び寄せられた。こうしたオペラのうち、一番目〔に上演された〕オペラの最初の三回の公演を聞くに際し、グラウンは、音楽に注意を向け幅広く聞き取り、その聞き取ったことを、幸いにも〔与えられた〕並外れた記憶力の助けによって記憶にとどめるということに〔、全ての神経を集中させた〕。なぜなら、当時の彼の境遇からすれば、そのオペラの完全なスコアを手にする機会は、それを得られるに越したことはなかっただろうが、ほとんど望むべくもなかったからである。〔オペラののち〕家に着くと、彼は記憶に留めたものを全て書き出すということを、計三回の上演を〔通じて繰り返した。〕三回目の上演が終わったのちには、彼はオペラ全編のアリアにおける歌唱声部とバス声部を、注意するに値しないわずかな省略を除き、〔楽譜上に〕書き出すこと〔ができた〕。この後、彼は歌手たちの歌唱に対して注意を向け〔ることに専念し、〕それらを後で全て模倣できるよう〔、その技法の習得に〕努めた。当時ドレースデンで上演された他のオペラやセレナーデもグラウンは〔、ロッティのものに対してしたほど〕大変な苦労をして聞いたわけではないにせよ、同様の知的探究心を持って聞いた。その中のいくつかは、当時まだドレースデンに来たばかりであったヨーハン・ダヴィット・ハイニヒェンによる作品であった。この時期が、グラウンを本当の意味でのオペラ作曲家のみならず、歌手としての〔基礎〕もまた、形づくったことに、疑いの余地はない。なぜなら彼は、劇場の俳優として〔舞台上で歌唱経験を積む機会には当時、〕全く〔恵まれ〕なかったようだからである。

 こうした〔一連の〕オペラ上演が終了した後グラウンは、それまでアラムニの合唱隊のために様々なモテットを作曲してきた十字架学校を去った。彼と彼の兄の名は今も、当時共に寄宿していた屋根裏部屋の木の壁に、彫られて残されている。彼は〔その後、〕さらに数年ドレースデンに滞在したが、その音楽的才覚のためにだけでなく、控えめで愛すべきその人格のために、多くの後援者や友人ができた。彼は、かつての教師であったカントルのグルンディッヒや、その後継者であった著名なバス歌手、テオドール・クリストリープ・ラインホルトのために、総数でいえば二年分の年鑑を作ることができるであろうほど多くの、教会音楽作品を作曲した。その中には、比較的長大な復活祭オラトリオも含まれている。これらの作品のうちにはしかし、我らがグラウンの後年の作品において際立っている、柔らかく歌唱的で、好ましいその本質は、まだ見られない。だが〔一方で、〕よく研究された合唱〔作品の書法は、すでにその鱗片を覗かせていている。〕

 我らがグラウンの友人や後援者のうちで、特に触れられるべき〔人物は、かつてのザクセン選帝侯宮廷楽団の〕コンサートマスターであった、ピゼンデルである。多くの〔人々がすでに〕指摘してきた通り、この賞賛すべき人物は、必要に応じた彼の音楽作品への的確な助言と鋭い判断〔を提供することを通じた〕彼への助力を惜しまず、またその死まで、彼とその兄の信頼できる友人であり続けた。また、当時の教区監督であったレッシャーも、彼の特に〔熱心な〕後援者であった。この著名で偉大な神学者は、音楽の、とりわけ宗教音楽の熱心な愛好家であった。彼はしばしば、詩篇やその他の宗教的な歌曲の手引きの後、鍵盤楽器での自由な幻想曲〔を演奏して〕楽しみ、自らを鼓舞することを常としていた。このことからも、彼自身が決して無能な音楽家ではなかったことがわかる。この学識深く誠実な人物がかつて、我らがグラウンに対し強い印象〔を抱くきっかけとなった出来事があった〕。かつて、〔当時の〕年老いたその街〔ドレースデン〕の音楽を好まなかった市長は、教会にあまりそぐわない形で作曲されていたある合唱曲を理由として、グラウンにドレースデンの教会のために作曲することを、また少なくともカントルに対し、彼の作品の演奏を禁ずることを、〔場合によっては教会の〕役員協議会を通して〔実現させようとしていた。〕グラウンは、のちにそれは彼自身も拒絶するようになったことではあったが、聖句「私の羊たちは、私の声を聞く」への合唱曲を、パストラール様式で作曲したのである。当然のことながらグラウンはここで、二つの誤りを犯していた。単声で歌われるべきとされていた聖句に対し、合唱〔の形で〕作曲をしたこともよくなかったし、この聖句の比喩的表現に対し、字義通りの解釈をして〔パストラール様式の作曲をした〕ことも、むろんよくなかった。もっともこの市長氏は、若い作曲家がしばしば、〔常識的な〕判断〔をする〕よりも、〔奇抜で斬新なことをして〕創造力を示そうという誘惑に陥りがちであるという〔事情を、〕もっと汲むべきであっただろう。この失敗はしかし、グラウンによる教会音楽作品の上演を全て禁じるべきだとするには到底及ばぬ〔ほど、瑣末な〕ものであった。レッシャー博士はそれゆえ、この〔市長による〕厳しい要求を〔当局に〕実施させることはせず、その代わり作曲家〔グラウン〕に対し、常に正確を期して熟考し、教会作品と劇場作品との間には、思慮深い〔様式的〕差異を設ける〔べきであろう、〕と勧告した。今は亡きレッシャーが、我らがグラウンの真の友人であったということは、この〔逸話に〕よってだけ、示されているわけではない。彼はいつも、グラウンに関する他の多くの所見〔を通じて、彼を〕賞賛した。

 この賞賛すべき人物の他にも、グラウンには当時の建築上級地方長官であったカルハー(von Hiller: Karger)という、もう一人の特別な後援者がいた。彼はドレースデン郊外の大庭園に居を構え、グラウンはしばしばそこに数日間滞在した。ある時、彼はそこで作曲をしており、ちょうど雷がなった頃、グラウンは作業をしていた机から離れ、部屋を出て行った。彼が去ってまもなく、雷がそこを直撃し、机とその上に置かれていたスコアは焼けてしまった。彼がそこに数分長くとどまっていたならば、グラウン自身、間違いなく雷によって死んでいたことだろう。

 著名なリュート奏者であったシルヴィウス・レオポルト・ヴァイスもまた、グラウンの非常に良き友であった。彼と、当時ポーランド王室宮廷楽団のフルート奏者であったクヴァンツとはグラウンと連れ立って、〔神聖ローマ皇帝附〕宮廷楽長であったフックスによって作曲されたオペラ《コンスタンツァとフォルテッツァ》を聴くため、1723年にプラハへと旅行した。〔オペラを〕快適に聴く機会には恵まれなかったので、彼ら三人はオーケストラでの〔演奏に〕志願し、伴奏者として自らの力量を、演奏においてだけでなく練習を〔通じて〕も高めた。グラウンはチェロを演奏した。

 〔ところで、〕その友人関係が同時代の状況に大きく影響した人物は、当時〔どこの?〕儀典長官で宮廷詩人でもあった、ヨハン・ウルリヒ・ケーニッヒであった。彼はかつてハッセを、最初はハンブルクの劇場に、のちにはブラウンシュヴァイクの宮廷に推挙しており、〔その後のハッセの〕成功が示している通り、その後の彼の幸福に最初〔のきっかけを〕もたらした人物である。彼は〔その後間も無く、〕もう一人のすばらしく成長を続けている音楽家であった我らがグラウン〔が後に手にした〕幸福の支援者にもなるという、同様の喜びを再び得ることとなった(mit gleich guter Wirkung:未訳)。ブラウンシュヴァイクの宮廷で約二年間、テノール歌手として職務に就いており、同地で自身の最初のオペラを作曲したハッセは、大公からの許しを得てイタリア旅行に出発していたため、ブラウンシュヴァイクではその頃、その申請された離職ゆえに生じた〔テノール歌手の空席〕を、良い形で穴埋めすることが求められていた。ブラウンシュヴァイクの宮廷で全く無名というわけではなかったケーニッヒは、当時の〔劇場〕監督であったフォン・デーン伯爵に、最終的には我らがグラウンを推薦した。グラウンがそれを通じて歌手として呼び寄せられ、間近に迫った聖燭祭〔祝日のための〕オペラ中の一役があてがわれるという運びとなることに、困難はなかった。そのオペラはHenricus Aucepsといった。グラウンは1725年のクリスマスの頃、ブラウンシュヴァイクへと旅立ち、当地で次の年の聖燭祭〔祝日のために作曲された〕二つのオペラを歌った。最初に触れた〔オペラ〕のアリアは、当時のブラウンシュヴァイクの宮廷楽長であったシュルマンによるものであったが、グラウンはそれらを全く気に入らなかった。彼はそこで、自らの趣味に沿ってそれらを書き直し、彼による独自の作品として歌った。大公、ならびに宮廷の人々はこれを大変気に入り、グラウンはテノール歌手としてハッセの地位を〔正式に〕受け継いだだけでなく、夏の見本市〔に際し上演される〕予定となっていたオペラの作曲の依頼も受けた。

 このオペラは《ポリドールPolydor》といい、全編にわたってドイツ語であった。この作品は作曲の観点から、概して高い評価を受けた。この〔オペラに〕よってグラウンは、宮廷副楽長の地位を受け、〔昇格に伴う〕追加の俸給も得ることとなった。彼がその地位にいかにふさわしいかということを、彼はその時完成させたドイツ語によるクリスマス・オラトリオによって示すこととなった。

 その後〔ブラウンシュヴァイクで〕上演されたオペラにおいて、彼は仮にそれが自身の作品でない場合も、歌唱を行なった。そうした作品のためにも彼はアリアを、〔特にそれらが〕当時のブラウンシュヴァイク〔宮廷〕劇場で最も優れた第一女性歌手であったSignora Simonettiによって歌われるであろう場合、ほとんど新たに作曲していた。

 彼がブラウンシュヴァイクで全編にわたり作曲したオペラは、わかっている限りでは、以下の通りである。

 

1. ポリドール、全編ドイツ語。

2. サンチョとシニルデ、〔テクストは〕シルヴァーニによるイタリア語〔台本〕から、多くの変更とともにドイツ語に翻訳されたもの。

3. アウリスのイフジェニア、こちらも全編ドイツ語。

4. スキピオ・アフリカヌス、ドイツ語。

5. ティマレータ。1733年〔初演?、〕全編イタリア語。

6. ファラオ。アリアはイタリア語、レチタティーヴォはドイツ語。これは当時ドイツのいくつかの場所で慣例となっていたが、広く一般的となるまでには至らなかった慣習に依るものである。このオペラは、〔内容としては〕アポストロ・ツェーノ〔の台本による〕《ジャングイル》〔と同じ〕であった。翻訳を行ったハンブルクの学長ミュラーによって、〔タイトルが〕ファラオへと変更され、〔題材とされる場所も〕インドからエジプトへと置き換えられた。

 

 これらのオペラの他にも、グラウンはブランシュヴァイクで、多くのドイツ語による誕生日祝賀〔のための〕音楽、教会作品、イタリア語によるカンタータ、二つの受難節のための音楽〔作品〕を作曲した。彼が1731年に完成させたアウグスト・ヴィルヘルム大公のための葬送音楽も、概して高い評価を受けた。跡を継いだルートヴィヒ・ルドルフ大公が彼を〔宮廷副楽長の〕地位へと就け、俸給の追加を認めた〔人物である〕。同様の〔グラウンへの〕措置は、彼の後継であったフェルディナンド・アルブレヒト大公も行った。

 この人物からしかしグラウンは、事前に告知されることなしに〔、職務を〕解任されることになった。現プロイセン王で、当時の皇太子〔であったフリードリヒが、グラウンを自らの宮廷に引き入れるためである。〕グラウンは1735年、当時のプロイセン皇太子〔の宮廷で〕職務に就くため、ラインスベルクへと赴いた。

 当地での主要な務めは、皇太子の前で歌唱を披露することであった。彼はそこで、多くのイタリア語のカンタータも作曲している。そのテキストは、一部はパオロ・ロッリによる詩から、また一部は皇太子自身によってフランス語で構想され、ベルリン〔宮廷に仕えた〕イタリア人の詩人であった、ボッタレッリによってイタリア語に翻訳されたものから採られた。人が、我らがグラウンの偉大な歌手としての優秀さを知ることができるのは、まさにこの時代、またこの時代に〔作曲されたこれらの〕作品においてである。

 皇太子が国王に即位して間もない1740年、グラウンは慈悲深き〔国王からの〕命令によって、死去した〔先〕王、フリードリヒ・ヴィルヘルムの葬儀のための音楽を完成させた。テキストはラテン語で、上演のため歌手たちがドレースデンから派遣された。この作品のスコアは、銅版〔印刷によって出版〕された。

 その後まもなく、まだ1740年であったが、グラウンは王によって、オペラを完璧な形で上演するために必要な歌手を〔見つけ、宮廷楽団に〕雇い入れるため、イタリアへと派遣された。彼はイタリアに約一年ほど滞在し、ヴェネツィア、ボローニャ、フィレンツェ、ローマとナポリを訪ね、〔その結果は〕王を十分に満足させるものであった。イタリアで彼の歌唱及び作品は、大きな喝采を受けた。〔とりわけ〕歌唱は何にも増して、〔当時の〕イタリアで最も偉大な歌手にして歌唱芸術の巨匠のひとりであったベルナッキから、掛け値なしの賞賛を受けた。帰国後、彼の俸給は〔年〕2,000ターラーにまで引き上げられ、1741年と1742年の間の謝肉祭のために、オペラ《ロデリンダ》を書かなければならなかった。それはベルリンで最初に書かれたグラウンのオペラであったが、《ロデリンダ》は今日においてもなお、グラウンの最も優れたオペラの一つと見做されている。ここで、グラウンがベルリンで作曲したオペラの一覧を、〔作曲された〕年や初演場所、またいくつかの所見を補いながら紹介したいと思う。これらのうち多くの作品は、その後も再演されており、人は、王が毎年一つか二つのグラウンのオペラを、今日に至るまで上演させていることを知っている。

 最初のものは、すでに言った通り、

〔1.〕《ロデリンダ》、1741年。続いて

2. 《クレオパトラ》、1742年。両者とも、ボッタレッリの詩による。シャイベは『批判的音楽家』の中で、この両者について786頁から794頁で論じている。

3. 《アルタセルセ》、1743年。メタスタシオの詩による。このオペラでは、素晴らしいアルト歌手で、のちにドレスデンの劇場でも歌ったパスクァリーノ・ブルスコリーニがはじめて〔ドイツで?〕歌った。

4. 《ウティカのカトー》、1744年。メタスタシオの詩による。のちにベルリンとドレスデンで歌うことになったザリンベーニが、〔ドイツで〕はじめて舞台に登場したということで、人はそれを、いまだ喜びと共に記憶している。

5. 《インドのアレクサンドロス》、1744年。メタスタシオの詩による。

6. 《ルチオ・パピリオ》、1745年。アポストロ・ツェーノの詩による。

7. 《シリアのアドリアーノ》、1745年。メタスタシオの詩による。

8. 《デモフォーンテ》、1746年。同じくメタスタシオの詩による。このオペラのアリア《ミゼロ・パルゴレット》は、多くの聴衆を涙させるほど、心を動かした。

9. 《カーヨ・ファブリツィオ〔ガイウス・ファブリキウス〕》、1747年。アポストロ・ツェーノ〔の詩による。〕

10. 《優雅な祝宴》、1747年。 フランス語のドュシェ〔による台本が、〕新たに〔宮廷詩人として〕着任したイタリア人の詩人ヴィラッティによって、イタリア語に翻訳された。

11. 牧人劇のためのレチタティーヴォ、合唱および二重唱曲、1747年。ヴィラッティの詩による。序曲といくつかのアリアは、王によって〔作曲された。〕その他〔のアリアは〕クヴァンツとニヘルマンによる。ジョヴァンニ・アストゥーラが初めて舞台に登場した。

12. 《チンナ》、1748年。コルネイユのフランス語〔台本から翻訳された〕ヴィラッティの詩による。

13. 《優雅なヨーロッパ》、1748年。ラ・モトのフランス語〔台本から翻訳された〕ヴィラッティ〔の詩による。〕稀有なオペラである。

14. 《オーリードのイフィジェニー》、1749年。ラシーヌのフランス語〔台本から翻訳された〕ヴィラッティ〔の詩による。〕

15. 《アンジェリカとメドロー》、1749年。キノーのフランス語〔台本から翻訳された〕ヴィラッティ〔の詩による。〕

16. 《コリオラーノ》、1750年。王による〔フランス語構想に基づく〕ヴィラッティ〔のイタリア語の詩による。〕

17. 《フェトーネ》、1750年。キノーのフランス語〔台本から翻訳されたイタリア語の詩による。〕この年、ザリンベーニはドレスデンへと行き、その後任として、素晴らしいコントラ・アルト歌手であるジョヴァンニ・カレスティーニが、ベルリンにやってきた。

18. 《ミトリダーテ》、1751年。ラシーヌのフランス語〔台本から翻訳されたイタリア語の詩による。〕

19. 《アルミーダ》、1751年。キノーのフランス語〔台本から翻訳されたイタリア語の詩による。〕

20. 《ブリタンニコ》、1752年。ラシーヌのフランス語〔台本から翻訳されたイタリア語の詩による。〕最後の合唱《Vanne Neron spietato》はとりわけ素晴らしい。

21. 《オルフェオ》、1752年。ドュブレのフランス語〔台本から翻訳されたイタリア語の詩による。〕

22. 《パリスの審判》、1752年。ヴィラッティの詩による。

23. 《シッラ》、1753年。王によって書かれたフランス語の〔構想から、〕新しい〔宮廷〕詩人タッリァズッキがイタリア語の韻文に翻訳した。このオペラを最後に、ブルスコリーニは〔ベルリンを〕去った。

24. 《セミラーミデ》、1754年。ヴォルテールのフランス語〔の戯曲から、〕タッリァズッキによってオペラ〔の台本としてイタリア語に翻訳された韻文による。〕

25. 《モンテズマ》、1755年。このオペラにおける大体のアリアは、繰り返しがない。

26. 《エツィオ》、1755年。メタスタシオの詩によるが、様々な改変を含む。

27. 《敵となった兄弟〔I fratelli nemici〕》、1756年。

28. 《メローペ》、1756年。同様に、大体のアリアにおいて繰り返しがない。

さらに、機会的な〔オペラ導入のための〕二つのプロローグがある。

 

 これらのオペラにおける全ての二重唱曲、三重唱曲のスコアは、いくつかの合唱曲のそれとともに数年前、4巻本としてベルリンで出版された。

 そのほかにもグラウンは、ベルリンで一般〔市民〕のための音楽をいくつか完成させている。1. 《イエスの死》と題された、ラムラー教授の詩による受難節のための音楽。2. ラテン語による《テ・デウム・ラウダームス》。どちらの作品も、ライプツィヒのブライトコプフ社から、スコアが出版された。この出版社からは、先ごろ死去した前ザクセン選帝侯妃による詩にもとづくカンタータ《Lavinia a Turno》もまた、世に出されている。そのほかにも彼は多くのトリオ・ソナタや鍵盤楽器のための協奏曲を作曲した。そのうち後者は、鍵盤楽器の持つ能力全てを使い切るような〔内容を持ってはいない〕ものの、鍵盤楽器のためのアダージョを、どう旋律的に、またどう感動的に作曲することができるかについての規範を提供することができる〔内容のものである〕。

 1761年、ベルリンでヴェーベル〔社〕から、『楽長グラウン氏による、精選された鍵盤楽器〔伴奏付きの〕歌曲集』が刊行された。編集者による〔歌曲集への〕序言は、いくつかの論争を提起するきっかけを与えることとなった。〔その子細は、〕『音楽に関する批判的書簡集』第2巻第1部の第71書簡に示されており、参照するに値するものである。

 グラウンは、プロイセン王室において〔宮廷楽長として〕職務に就いていた間、あわせて二回の有利な結婚を〔経験している。〕最初の結婚で彼は娘を一人設け、彼自ら歌唱の指導をし、〔その後は〕クロスノ侯国のトルノ〔に居を構えていた〕商業顧問官ツィンマーマンのもとへと嫁いだ。二度目の結婚では四人の息子に恵まれたが、そのうち音楽を生計の糧として選んだ者はいない。

 グラウンは1759年の8月8日、高熱を伴う肺病によって死去した。彼の死は、すべての良き音楽の真の識者にとっての悲嘆であった。

 彼の歌唱における優れた能力については、〔これまで〕幾度も触れられてきた。ここではさらにその詳細を述べることとしよう。彼の声は、とりたてて力強いというわけではなかったが、非常に快適なもので、声〔域〕は高いテノールであった。点なしの音域半分と一点オクターヴ全域が、彼の声にとって最も歌唱がしやすい音域であった。彼の声は非常な敏捷さを備えており、走句を、濁ることも鋭くなることもなく正しい歌唱様式で、大いなる洗練性と正確性をもって歌った。彼はしかし同時に、アダージョ〔にありがちな細かな〕Bolate〔ursp. volare? 装飾音?〕の数々もまた、素晴らしく表現した。〔アダージョを〕彼は、とりわけ甘美で感動的に歌った。彼がソプラノ歌手として有していたトリルの素晴らしい〔歌唱は、〕テノールへの声変わりとともに、彼の得意とするところではなくなってしまったが、作曲の大家として彼は、この弱点を全く覆い隠して〔作品を作曲する〕術を、よく心得ていた。二重前打音や、その他の細かい装飾音〔の表現において、彼は〕より優れていた。

 彼の歌唱の卓越性に関する最も高貴な証〔について、〕彼の後継者となった楽長ライヒャルトが、彼の『音楽的芸術誌』第3号の中で述べている。当時ドレスデンで冬季宿営をしていた王に、フランツ・ベンダが、グラウンの死の悲しい知らせをもたらすと、王は泣いてこう言ったという。「あのような歌手〔による歌唱を、〕私たちはもう二度と、聞くことはないだろう。」王が嘆いたものは、第一にはグラウンの歌唱〔が失われたことであった。〕だが同時に、彼は〔作曲家としてのグラウンの喪失も嘆き、〕彼の作品を〔引き続き王立劇場で上演することを通し、〕今なお大切にしている。

 作曲家として、彼は和声とその技法を、非常に規範的に理解していていた。彼の〔合唱等の作品における〕和声的作曲〔法〕は細部に至るまで純正で、また明快であった。彼は常に、適切な範囲において〔その可能性を〕最大限発揮した〔作曲をしていたが、〕歌唱声部に過度の負担を強いることは決してなかった。彼の実際に和声的な〔合唱等の〕作品は、和声の性質を基盤とし、非常によく研究されたものであった。彼のフーガは、大仰なものでも深みのないものでもなければ、わざとらしいものでも軽薄なものでもなかった。そのことは、例えば〔受難オラトリオ〕《イエスの死》の合唱を見るだけでも明らかだろう。人は概して、〔グラウンの〕この〔フーガの〕書法を、すべての作曲家たちに対する規範として推薦することができる。〔また、〕非常に明確な転調の順序が、彼の全ての作品を支配している。この点に関して、彼はとても感情〔表現に富んだ作曲をしたが、〕それに反して転調に際しての硬さは最小限〔に抑えられていた。〕彼の旋律は、人が聞くことのできるものの中で、もっとも快適なものの一つである。彼の作品において、情熱〔的な表現〕が欠けているわけでは決してないが、〔それにも増して〕快適さ、響きの心地よさ、また心を感動させる表現こそが、彼が〔作曲において〕最も得意としたことであった。彼のアダージョは、わけても傑作であるが、その〔内容は〕彼の人好きして、友好的で穏やかな性格とよく対応している。彼のほとんどすべてのアダージョのアリアが、特に第一部をもう一度繰り返〔して演奏し〕なければならない〔形式で作曲されていたために、〕あまりにも長大であったことは、惜しい点である。グラウンやザリンベーニ〔の作品は、〕聞き手が疲れることのないように、上演されるよう〔努力されなければ〕ならない。

 彼の死は公正に大きく、また公〔の場において〕も悼まれた。『音楽に関する批判的書簡集』第1巻の第11書簡に、これに関連する〔内容の記述が〕含まれている。また、我らが不滅のグラウンの栄誉を称えるにふさわしい詩は、この彼の生涯の記述を終えるにあたって〔もまた、ふさわしいものであろう。〕

​〈頌詩訳省略〉

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