ヨハン・フリードリヒ・アグリーコラ(著?)/ヨハン・アダム・ヒラー(編)

先のポーランド王国・ザクセン選帝侯国〔宮廷楽団〕コンサートマスター、

ヨハン・ゲオルク・ピゼンデル氏の経歴

​翻訳:田中伸明

* 『ICU比較文化』52 (2020) 69頁から100頁に掲載。 

 ヨハン・ゲオルク・ピゼンデル氏は、1687年12月26日、フランケンの小さな街であるカールスブルクに生を享けた[1]。彼の父であるジーモン・ピゼンデル氏は、1680年の着任から1719年まで、この地のカントルおよびオルガニストであった。

 幼少の時よりピゼンデル氏は、音楽への格別な傾倒と才能を示した。彼の父はその〔成長を〕、巧みかつ精励な教授を通して支援した。9歳の時ピゼンデル氏は、旅行の途中カールスブルクに寄られたアンスバッハ辺境伯殿下の前で[2]、イタリア語〔のテクストを持つ〕ソロ・ソプラノのために作曲されたモテットを、教会で披露するという栄誉を得た。辺境伯は若きピゼンデル〔氏〕の〔音楽への優れた〕才能に慈悲深い好意を示され、彼をすぐにソプラニストとして、アンスバッハの宮廷楽団に採用した。

 その宮廷楽団は当時、イタリアおよびドイツ出身の、非常に優れた名演奏家たちによって構成されていた。宮廷楽長は、アントン・ピストッチ氏が務めていた。彼は、特に歌唱芸術における強力かつ際立った業績によって感謝されるべき〔人物〕である【原注:彼はイタリア語で2つのデュエット、フランス語で2つのアリア、そしてイタリア人であったというのにドイツ語でも2つのアリアを、アムステルダムのロジャー〔氏〕のもとで印刷している。彼はまた、いくつかのイタリアのオペラ〔台本〕、たとえばアポストロ・ツェーノが1697年に書いた《ナルシス》などに対して作曲を行い――それは大変美しい作品である――アンスバッハで上演している。彼は他にも、数多くのイタリア語のカンタータを作曲している】。当時イタリアにおいて有名であった素晴らしい歌手たちは、彼の門下である。

 アンスバッハのコンサートマスターは、当時優れたヴァイオリン奏者であり作曲家であった、ヨーゼフ・トレッリ氏であった[3]。彼は一方では印刷〔によって出回っている〕器楽作品、他方では、特にヴィヴァルディによってのちに発展させられることとなり[4]、そして今なお広く用いられている器楽協奏曲の形式を整えた、最初の人物として有名である。この〔形式の〕より良い発展には、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ氏がとりわけ大きな貢献をしていることに、疑問の余地はない。

 上で見たような名手たちがいた状況で、ピゼンデル氏がその音楽的見識をかなり高めたことは、全く驚くべきことではない。特にトレッリ氏は、ヴァイオリンの秩序立てられたレッスンを彼に行った。学問を修めて欲しいという父の意向に沿う形で、彼は〔そうした音楽活動の〕一方で、アンスバッハの有名なギムナジウムにも通った。〔音楽以外の〕学問を修めたことによって、かえって〔その本業である音楽に〕悪影響が出たという音楽家がいたことは、未だかつてない。ついでに言えば、後にピゼンデル氏と呼ばれることになる偉大な音楽家のこのような〔少年時代の〕例は、たとえ全てに対しては許されないにせよ、音楽に興味を持ち、しかしながら同時に他のことにも興味を持っている、若き頭脳たちへの良い教訓と励ましを提供できる。6年間ピゼンデル氏はソプラニストとして、その後声変わりののちもなお5年間ヴァイオリニストとして、彼はアンスバッハの宮廷楽団で職務についていた。その後彼はアンスバッハに別れを告げ、音楽と学問とに更に専念するため、1709年3月、ライプツィヒへと赴いた。この機会に辺境伯は、大学修了後、その熟達の度合いに応じて、彼を昇給とともに再びアンスバッハの宮廷に雇い入れることを約束した。旅の途上で経由したヴァイマールで彼は、当時そこで職務にあったヨハン・ゼバスチャン・バッハ氏と知り合った[5]

 ライプツィヒへの到着後まもなく、コレギウム・ムジクム〔の演奏〕をピゼンデル氏が聞きたいと思っていたとき、彼のことを反対側から、当時コレギウムのメンバーであったゲッツェ氏(その後彼の確かな友人となった)が見ていた【原注:このゲッツェ氏は、後にライプツィヒで商務裁判所の書記官を務めた人物である。彼の長男で、〔ポーランド〕王国および〔ザクセン〕選帝侯国で法務長官および軍事顧問官を後に務めたゲッツェ氏は、まだ彼が大学生であった頃(その時に著者は、彼と知り合うという栄誉を得た)、大変優れた鍵盤楽器およびヴァイオリン奏者であり、また、才能ある作曲家でもあった。後に〔果たすこととなった〕重要な公務の傍らで、音楽は常に彼の愉しみであった。彼は作曲をよくし、その中でも鍵盤楽器のためのソナタが多く書かれた。〔その作風は〕激しく、また、鍵盤楽器に固有の〔特徴もその内に〕見て取ることができる。だが〔その激しい作風ゆえ、〕時には〔作品の〕統一感が失われてしまうこともあった。ブライトコプフから発行されている音楽通信の中に、彼のソナタが一つ収録されている。このゲッツェ氏は〔しかしながら〕先の戦争中、彼の〔人生のうちで〕最も輝かしいその時に、ワルシャワで死去した】。なぜならピゼンデル氏はその当時、とても痩せており、身なりも非常に質素で〔人目を引いた〕からである。そして彼は言った。「あの狩人は、何をしたいというのだ?そうか、きっと何かいいものを聞かせてくれるに違いない!」ピゼンデル氏はそこで、トレッリ氏によるハ長調の協奏曲を紹介した[6]。それはユニゾンで、このように始まる。

 

 

独奏楽器によるこの協奏曲の最初のパッセージは、この〔譜例で示されたものと〕同じ音高である。このパッセージの演奏をゲッツェ氏は、彼がよく演奏し慣れ親しんでいたチェロで行い、〔このような作品を紹介した〕新しい学生〔のピゼンデル氏〕を、驚きをもって眺めた。〔第2楽章である〕アダージョがやってきて、ピゼンデル氏はようやくソロ声部の演奏を始めた。そのことを以ってゲッツェ氏は、彼が〔第1楽章で〕行ったことに、ピゼンデル氏は大変満足であったということを知り、〔ピゼンデル氏の振る舞いを〕賞賛した。

 1710年、当時ライプツィヒのオペラおよびコレギウム・ムジクムの監督であったメルキオール・ホフマン氏がイングランドへと旅行し[7]、ピゼンデル氏は新教会における音楽のみならず、当時「ランシュタットの塹壕」で演奏していたコレギウム・ムジクム[8]、さらには当時のライプツィヒのオペラにおける音楽の監督を任され、その全てを多大な賞賛を受けて仕切った。

 1711年、彼はヘッセン=ダルムシュタット方伯とともに、ライプツィヒからダルムシュタットへと旅行した。当地の楽長であったクリストフ・グラウプナー氏によって作曲された新しいオペラを〔上演するに際し〕[9]、オーケストラの統率を現地で行うためである。そこで彼は、非常に良い条件のもと、〔宮廷楽団で〕職務につくことを望まれた。しかしながら、復活祭までにライプツィヒに再び戻る約束になっていたため、彼はその申し出を断った。

 まさにこの1711年に彼は、彼の予想に反して、ドレースデン〔に設置されたポーランド=ザクセン〕王国・選帝侯国宮廷楽団において[10]、〔演奏者の〕地位を得ることになった。当時ドレースデンでコンサートマスターの地位にあったヨハン・バプティスト・ヴォリュミエ氏は、ピゼンデル氏のコレギウム・ムジクムにおける演奏をライプツィヒで聞き、この〔就職の〕打診を行ったのであった。この地位をピゼンデル氏は受け入れ、それまで彼によって運営されてきた音楽的業務の〔責任を〕、イングランドから戻ったメルキオール・ホフマン氏に再び移譲し、1712年1月に、王国〔・選帝侯国〕宮廷楽団の職務についた。彼は、著名なフィオレッリ〔の後任として〕[11]、ヴォリュミエ氏に次ぐ地位を与えられた。

 1714年5月、ポーランド国王陛下は彼を、宮廷楽長のシュミット[12]、コンサートマスターのヴォリュミエ、宮廷オルガニストのペツォルト(優れた、かつ基礎的な作曲家の一人である)、そして著名なオーボエ奏者のリヒターといった他のドレースデンの音楽家たちとともに、フランスへと旅行させた。この人物たちは旅行中、リュネビルを経由し、そこで今は亡き〔神聖ローマ〕皇帝フランツ〔1世〕の父である、当時のロートリンゲン公爵に演奏を披露した。ピゼンデル氏とリヒター氏はその際、とりわけ素晴らしい喝采を得た。その後彼らは、パリへと旅を続けた。当時の〔ポーランド〕王国・ザクセン選帝侯国皇太子もまたその時、パリに滞在していたので、ピゼンデル氏はしばしば、皇太子殿下の前で演奏するという栄誉を得た。

 フランスからの帰郷後の1715年、彼は王国=選帝侯国宮廷楽団の他の演奏家たちとともに、〔当時〕ベルリンに駐留していたフレミング元帥伯爵のもとへ旅することを許された。そこで彼は、フレミング伯爵によって催された饗宴に際して、先のプロイセン国王陛下に演奏を披露するという栄誉を得た。

 1716年、オーボエ奏者であるリヒター氏とともにピゼンデル氏は、彼の慈悲深い主人の経費負担によってイタリアへと旅することになった。その道中、彼はバイロイトで、同地の宮廷の要求により〔演奏を〕披露することとなった。それへの〔感謝として〕示された恵みによって彼は、侯爵より〔下賜された〕馬車と、それに伴って〔派遣された〕侯爵の使用人たちとともに、12マイル離れたカールスブルクの父のもとを訪れることを許された。

 その年の4月に彼はヴェネツィアに到着し、その時はヴェネツィア〔へと移動し〕滞在していた当時の王国・選帝侯国皇太子のもとで再び音楽を、9ヶ月の間に渡ってほぼ毎日、供することとなった。

 

 

 1717年初頭、ピゼンデル氏は当局による許可と、そこから〔発せられた〕恵み深い推薦状を携えてヴェネツィアをたち、ロレートを経由し、ローマとナポリを訪れた。彼はそこで、カーニヴァルに際して上演されるオペラやその他の音楽から、それらを〔実際に〕活用するための見識を得る機会を逃さなかった。ナポリで彼は、有能なヴァイオリン奏者を多くは見出さなかった。ローマではしかし、彼は帰り道に有名なヴァイオリン奏者モンタナーリのもとで学び、フィレンツェではマルティーノ・ビッティ、そしてヴェネツィアでは当時著名であったヴィヴァルディやその他の名演奏家のもとで学び、彼らの優れた音楽的才能のうち、〔自身にとっても〕必要であると考えられるものを身につけた。更に彼は、ヴィヴァルディ氏とモンタナーリ氏からは、体系づけられたヴァイオリンのレッスンを受けた。

 彼はヴェネツィアに滞在中、それぞれに性質は全く異なるものの、2つの特筆すべき偶然に見舞われた。その一つは、以下のようなものであった。

 彼は一度、〔ポーランド=〕ザクセン王国・選帝侯国皇太子とのゆかりで、あるオペラのオーケストラで(これがサンクリソストーモ〔劇場〕[13]、サンタンジェロ〔劇場〕のどちらであったか、私は知らない)、おそらく幕間に――なぜなら当時、オペラ中の舞踏は今日ほど一般的ではなかったからであるが――ヴァイオリン協奏曲を一曲、演奏することを求められた。それに際し彼は、ヴィヴァルディが作曲した、以下のような〔パッセージで〕ユニゾンで始まり、ホルン〔声部も併せ持つ〕、へ長調の協奏曲を選んだ[14]

 

 

 

 

 

最終楽章は、次のように始まる。

この最終楽章では、独奏楽器声部は、歌唱的なソロによって開始される。最後にはしかし、32分音符による〔難しい〕運指〔が要求される〕長いパッセージがある【原注:これはつまり(ヴァイオリンにあまり通じていない読者のための報告である)、とても高音域であるために、ヴァイオリンで一般的な第1ポジションが適用できないだけでなく、指の位置を様々にずらし、かつポジションも移動しなければ〔演奏できない〕パッセージのことを意味している】[15]。このパッセージの演奏に際して、オーケストラの奏者たちは――彼らは全員イタリア人であったのだが――伴奏を故意に速めることによって、ピゼンデル氏を混乱させようとした。それに対し彼は、最小限の抵抗をするにとどまらず、足踏みをすることで明確に拍を示し、彼を陥れようとしていた人々に〔かえって〕恥をかかせた。皇太子はこのことに特別な喜びを示し、このピゼンデル氏の毅然とした〔態度を〕アンジョレッタ夫人に大きな喜びとともに説明したのであった【原注:このアンジョレッタ夫人が誰であったかについて、また、どのように皇太子と知り合ったのかについては、この週刊報告と所見の第29号、221ページに〔記載がある〕】

 ピゼンデル氏がヴェネツィアで経験した、2つ目の特別な出来事とは、次のようなものである。

 彼はヴィヴァルディ氏とともに、サンマルコ広場へ散歩に出かけた。散歩の中盤、ヴィヴァルディ〔氏〕は彼を道の脇へと引き寄せ、いますぐ一緒に家へ帰りたいと言った。ピゼンデル氏は直ちにそのようにし、〔家へ向かう道中〕ヴィヴァルディ〔氏〕が〔そのわけを〕説明した。ピゼンデル氏は気づいていなかったが、4人の警官が彼の後を常につけ、監視していたようだというのである。そのことで彼はピゼンデル氏に、ヴェネツィアで何か許されていないことをしてしまったのではないかと、真剣に尋ねた。ピゼンデル氏には、何も思い当たることはなかった。そうすると彼、つまりヴィヴァルディ氏は、彼の方から更なる報告を入手するまで、また、〔明確な〕回答を与えることが〔できる〕まで、家の外に出ないようにとピゼンデル氏に忠告した。ヴェネツィアで大変有名であったヴィヴァルディ氏は、そのために直ちに共和国の審問者の一人と話し、万一の場合にはピゼンデル氏の力になると申し出た。しかし、彼が審問者から得た答えは、すでに〔ヴェネツィアに〕滞在していることは明らかである〔ものの、ピゼンデル氏とは〕全く別の人間を探していたらしいというものであった。その人物は、ピゼンデル氏と外見がいくつか似ている点があったようである。そういうわけで警官たちはピゼンデル氏を注意深く観察し、後をつけ、〔件の人物を探し出せるよう努力していたの〕だろうということであった。とにかくピゼンデル氏は、何の心配もなく、再び行きたいところへ自由に行くことができるようになった。ヴィヴァルディ氏はこの〔審問者の〕好感を持って〔受け入れられる〕回答を、ピゼンデル氏に直ちに、喜びとともに伝えることになった。

 ピゼンデル氏は、ミラノとトリノも訪ねたいと思っていた。しかしながら彼は、ドレースデン宮廷からの命令に従って、再びザクセンに戻らなければならなかった。そういうわけで彼はイタリアを去り、1717年9月27日に再び無事、ドレースデンへと到着した。

 1718年、彼は王国・選帝侯国皇太子がその時滞在していたヴィーンへ旅し、当地で再び〔皇太子〕殿下に対し、室内楽を供した。〔同様の経験をピゼンデル氏は〕異なる3つの国でし、今回がその3度目となった。

 1728年5月、彼の〔主人であるポーランド〕国王が旅行するのに伴って、ピゼンデル氏は再びベルリンへと赴き、あわせてビュファルダン氏、クヴァンツ氏、ヴァイス氏もやってきた。クヴァンツ氏は、ポーランド国王とともに一足早く〔ベルリンへ〕行き、また、今は亡き〔前〕プロイセン王妃の求めに応じて、他の同僚よりも長くそこへ留まった。ピゼンデル氏、ビュファルダン氏、ヴァイス氏は、3ヶ月間のベルリン滞在の後、各々が100ドゥカートを受け取り、ドレースデンへの帰路に着いた。

 1728年10月7日以降、コンサートマスターであったヴォルミエの死去により、ピゼンデル氏は彼が担っていた全ての任務を引き継いだ。これに伴い彼はフランスの音楽、およびイタリアの音楽両方を演奏することとなったが、彼はそのどちらにおいても名手であった。当時両者は、大変異なった音楽様式を有していた〔にも関わらずである〕。〔しかしながら〕正式にコンサートマスターとして任用されることとなったのは、1730年のミュールべルクにおける野営〔にオーケストラが派遣された〕時であった[16]

 すでに1719年、ドレースデンでのロッティのオペラの練習の際[17]、あるアリアの伴奏方法を巡って、セネジーノ氏とヴォリュミエ氏の間に論争が起こった。前者は後者を、あまりに硬く粗野に演奏しているとして非難した。この言い分には幾分かの理があったように思われる。ある練習では、ヴォリュミエ〔氏〕は外にいて、ピゼンデル〔氏〕が器楽の統率をとった。件のアリアが終わった後、以前にあった出来事からその考え方が知られていたセネジーノ〔氏〕は、舞台から下に降りてきて、ピゼンデル氏の手を取り、他の賛辞も並べてこう言った。「彼こそが、伴奏の何たるかを理解している者である。」私たちはこの1つの小さな例を、〔フランス、イタリアの〕両方の演奏様式に通じていたというピゼンデル氏の強みを示す目的でただ、引き合いに出したに過ぎない[18]。ヴォリュミエ〔氏〕は、フランスの音楽様式にのみ、よく通じていたのである。

 1731年、ドレースデンに再びオペラの舞台が制作された[19]。ハッセ氏のような作曲家、ピゼンデル氏のようなコンサートマスターという〔組み合わせは〕、この上なく相応しいものであった。〔両者の〕どちらも、もう一方から害を受けるということはなかった。

 1734年ピゼンデル氏は、〔主人である〕王の命令に従って、他の幾人かのザクセンの宮廷楽団員とともに、ワルシャワへ行かなければならなかった。

 ピゼンデル氏は作曲を、しばらくは楽長ハイニヒェン氏のもとで学んだ。この有用な機会はしかしながら、楽長のおどろくほどの着想力の良さから〔常に作曲せずにはいられないというその性質のために〕、まもなく用い続けることができなくなってしまった。ピゼンデル氏はしかし、その後も自らの勤勉さを通して作曲を学び続け、自力で数曲のヴァイオリン協奏曲とコンチェルト・グロッソ――そのうちとりわけ美しいその1曲は、彼が新しいカトリックの宮廷教会での秘跡の際に〔演奏するために〕作曲した――を完成させたことが知られている。そのほかにも彼は、幾許かのヴァイオリン・ソナタ、コンサートのためではなくミサの〔司式中に演奏されるための〕数曲の器楽による4声フーガを〔作曲したことで〕知られている。彼は実際のところ、多くの作品を作曲し公表することについて、不当に怖気づいていた。自身の作曲能力を彼は、実際に持ち合わせていたそれに比して低く評価していた。彼は自身の作品に満足したことは一度もなく、それらを常により良くしたいと思っていた。実際に彼は、作品を少なくとも一度以上は書き換えていた。この注意深さは、幾分か度が過ぎていた。それには、彼の作品のうちで公になっているものが極端に少ないということも、関係しているかもしれない。〔この姿勢は、〕今日私たちが知るところのイタリア人流行作曲家と、そのドイツ人模倣者が行っていることとは、全く異なったものである。彼らは、もう一度賢い〔と思われる〕ことをしようと、例えば〔すでに発表済みの〕6つのソロ〔・ソナタ〕の〔最上声部のみ〕を書き出し、それにバス〔声部〕と2つの中間声部を追加することによって〔それらを新たに〕《6つの四重奏曲》として出版し、イタリアとドイツの可愛げのある〔愚かなその〕買い手たちを驚かせている。

 このように、ピゼンデル氏はあまり作曲には多く関与しなかった。むしろ彼は、他の音楽作品に対する正確な、またその中へと入り込む感覚と判断に関してより一層〔、その本領を発揮した〕。とりわけ、ある音楽作品〔の示す〕様相や発展といった点についてである。〔また、音楽中におけるその〕妥当性や重要性に関わらず、彼〔の音楽的感覚は〕1つの短い休符に至るまで敏感であった。彼は自身の判断を、〔その作曲者が〕伝えるに値すると考えられる人物であれば、喜んで伝えていた。この力強い判断力は、まだ若く自身の作品に十分すぎるほど満足しているものの、学習した基礎的なことを〔雛形として単に〕打ち延ばすだけでなく、それをより実用的な〔段階にまで高めたい〕と思っている多くの人々に対して、たくさんの長所をもたらしたのであった。こうしたこともあり、ピゼンデル氏にとって、ある他者の美しい作品に手を加えることは、大きな愉しみの1つであった。誠実な音楽家たちは、このように〔他の音楽作品を〕扱うことが常であったのだ。

  彼はかつていた者の中で、最も正確にオーケストラを統率することができた人物の一人であった。彼は若い頃、最も優れたヴァイオリン奏者の一人であり、それは独奏においても変わらなかった。器楽のアダージョを、正しく、かついくつかの方法で〔演奏できる〕私たちの〔世代の〕今日最も優れた音楽家たちの才能〔の源流を〕ピゼンデル氏に見出すことは、見当外れでない[20]。コンサートマスターになった後はしかし、彼は協奏曲のような作品をあまり演奏することはなくなった一方、オーケストラの統率により一層、心血を注ぐようになった。ヴォリュミエ〔氏〕がフランスの作品〔の演奏〕による鍛錬を通じて、すでに良い基盤を整え、全編成の、あるいは大規模な演奏のどちらであっても、喜びをもって聞くに値する演奏を識者たちが期待することができたドレースデンの〔宮廷〕オーケストラを、その時〔受け継ぐことができたのは、ピゼンデル氏にとって〕なんと素晴らしいことであっただろうか。一度根を張った良い習慣は、そう簡単には廃れないものである。

 彼は、ドレースデンに他の街からやってきた音楽家たちに対して親しみを持って接し、彼らに一市民として期待されうるあらゆる親切を示しただけでなく、喜びを持って、また〔相手にとって〕快適な態度で〔彼らの〕音楽に耳を傾けた。彼と音楽について話すとき、注意深い人にとってそれは快適であるというよりむしろ、そこから多くの教訓が得られるという〔性質のもの〕であった。

 同僚に対して〔も〕、彼は可能な限り、常に真の友人として接し、同時に相手からも高く評価され、敬愛されていた。

 すでに上で触れたように、彼は音楽に特別な才能のある若い人々を常に助けてやろうとし、良い助言や教授を行うことを通して、彼らの努力が〔開花するよう〕支援をした。そうした意味ではとりわけ、若い頃ドレースデンにいたグラウン兄弟〔の現在の成功は〕[21]、彼の友情、またあるいは彼の指導に大きく依っているのである。同じようなことをクヴァンツ氏も〔経験していることが〕、マールプルクの『寄稿集』第1巻の245ページに見られる彼の経歴の中で[22]、彼自身によって明らかにされている。

 彼の性格は、理性と博愛によって満たされていた。彼はその誠実な人間性を、神への厚い信仰心と、貧しい生活困窮者に対する多くの善行とによって示した。彼は貧しい者たちに分け隔てなく、また自身の名前を明かすこともなく、大事な贈り物を与えてしまうことがしばしばあったことを、だが正体を気づかれ、感謝を示されることを決して望んでいなかったことを、人は知っている。

 ピゼンデル氏は、今は亡き先のポーランド王妃、クリスティーネ・エーベルハルディーナからも、よく目にかけられる存在であった。彼は夏になると、よく彼女の宮廷に呼ばれ、その奉公に対しては相当の褒賞がなされた。

 彼には、他の宮廷からの好条件での〔雇い入れの〕申し出もしばしばあったが、彼の働きに対する主人〔であったポーランド王が〕示されたとりわけ深い慈悲〔を思料し、〕彼はそれらを全て断っていた。

  旧友を訪ねるために、また、現在のスウェーデン王妃の床入りの儀に伴ってベルリンで上演された4つのオペラを聞くために[23]、ピゼンデル氏は1744年、再びベルリンへやってきた。プロイセン王はこの機会に、彼を常に室内楽へと呼び、彼としばしば音楽のことについて語り合うことで、この素晴らしい音楽家の功績にふさわしい慈悲を示された。

 1750年ピゼンデル氏は、夏にはしばしば行くことにしていたギースヒューベルの温泉地で、通風孔のあたりに座っていたことが原因で〔それ以来〕、片方の耳の中で耳鳴りがするようになり、それに対して施された治療にも関わらず、二度と治ることはなかった。それにも関わらず、彼は教会にとどまらずオペラ、室内楽といった〔場面における〕音楽を司る職務の全てを、その死の直前まで厳格に遂行し続けた。宮廷から打診のあった職務の軽減も、彼は受け入れなかった。また、〔晩年にあっても〕彼の眼光は鋭いままであった。彼は、大変密に、また小さく書かれ、鍵盤楽器の上に置かれたスコアを、〔自身の席から〕眼鏡をかけることなく読み取ることができ、それに基づいてアリアの伴奏を正しく行うこともできた。〔だが〕遂に、彼は重い病気に罹り、それがもとで1755年11月25日に死去した。彼の最期の言葉は、享受することを許された神からの恵みへの感謝を述べる〔歌詞を〕含む、ある賛美歌の一節であった。こうして、音楽的見識の面でのみならず、性格や精神の点から言っても、誠実な音楽家としての一つの模範であったこの男性が、亡くなった。〔このような彼の生涯が〕記憶され、祝福されますように。

 彼は、生涯を通じて独身であった。それによって、彼に〔何か〕不都合が生じるわけではなかったからである。彼は〔自身に家族がいなかったため〕、親族に対しては常に友好的に接した。そのほかにも彼は、妹の子で、今はプロイセン王室の〔宮廷楽団で〕フルート奏者を務めているヨハン・ヨゼフ・フリードリヒ・リンドナー氏を〔音楽的に〕ほとんど全て教育し、その後クヴァンツ氏からフルートのレッスンを受けるという幸福を手にできるよう、手筈を整えた。

 楽長テーレマン氏は、手紙でピゼンデル氏の死について知っているかを尋ねてきた友人に対して[24]、その死後間もなく、以下のように綴っている。

 「ああもちろん!私の最も良き友人、ピゼンデルの死は、ドレースデンの郵便局からすぐに知らされた。〔当然私は〕激しく動揺したのだが、その理由は、あらゆる努力を以ってしても、彼の記憶に寄せて数行の詩を贈るということを成功させたくはないという〔思いが強いことを〕、私が改めて気づいたからという〔側面〕もある。私の残りの人生は、彼の足跡を残らず追っていく〔ために費やされるだけで〕十分だ。――

 彼の生涯の記述に関して、私が何か特別な貢献ができるとは、あまり期待してほしくない。というのも、今は〔使える〕時間が極端に制限されているということと、その〔記述は〕、すでに遠く過ぎ去った年月のこととも関連のある〔内容を含む〕、全体的なものとなるべきだからである。私たちがこの後も内々に、定期的に文通を続けるとしても〔、求められる内容全てを包括することは難しいだろう〕。いずれにせよ、私の心が彼〔と〕の美しい思い出をいくらか打ち明けるとき、私は自身を正しく制し〔落ち着きを持てるかどうか、自信はない〕。

 私たちはライプツィヒで、私が当地を去った数ヶ月後に知り合った[25]。彼はトレッリのもとからやってきたが、〔ドイツ人〕に対しては愛国的な考え方を示した。彼は、私が書いたある新しいオペラの中で、ヴァイオリンが幾分か過剰に書かれている箇所があるということを、私への手紙の中で、正しく指摘してくれた[26]。このライプツィヒへの旅行は私に、これまで〔あなたには〕言いすぎてきたかも知れない、彼の正直な気質と同時に、他人への愛情の深さも同時に教えてくれるものとなった。

 パリへの道中、彼の平静さを示すことになった、普通では考えられない出来事があった。ダルムシュタット近辺のある村で、彼は財布を盗まれたのである。彼の友好的な態度、また彼の気前の良さは、時に予想せず期待もしていないことであっても、また時にはそれによって彼に危険が迫るような危うい事故をも引き起こしてしまうという〔性質のものでもあった〕。」

 この手紙からしばらくのち、楽長テーレマン氏はこの友人に宛てて、この手紙の中でピゼンデル氏の死に寄せて完成させたいと思っているとされた詩を〔完成させて〕送っている。以下がその内容である。

 

ポーランド王国コンサートマスター、

かつてのピゼンデル氏の死に〔寄せて〕

 

友よ!君への口づけは、もう叶わない。

死が、私と君とを分け隔てたからだ。

何という宝を私は失ったことか、

どれほど多くの貴重なものが、君と共に消え去ったことか、

私のムーサの震える葦笛が、

君の思い出に〔添えるべき調べをもし、〕知っていたなら。

だが〔ここに〕、心を震わせるひとつの歌を贈ることにしよう、

涙し嘆く、合唱隊のために。

 

音楽の世界で若き芽が育てられ、

〔やがて〕巨匠へとなっていく。

そしてペン、指と弓によって、

彼は自ら、〔その世界の〕支配者となる。

宮廷の習慣が変われば、

太鼓持ちでいれば良いが、そこに

誇りはなく、やがて誤りを引き起こす。

古きドイツの善き〔魂〕に倣い、正しくあれ。

 

君を壮麗に讃えるために

ある広い国が見えてくる、

そこは君の気高き人生によって、

とても豊かだ。

知恵深き口から教えられる

〔それは、〕説教壇から〔語られるに〕ふさわしい

【原注:亡きコンサートマスターのピゼンデル氏は、朝と夕方の祈祷の際に、聖書を原語で読んでいたことが知られている。この逸話は、〔現在〕多くの音楽家を志す若者が、他の学問にほとんど無関心であるのを恥じ入らせ〔るのと同時に、〕彼が若い頃にどのように時間を使っていたのかを〔示す、良い教訓となるだろう〕。音楽〔に関する〕週刊〔の報告と所見〕の編者より。】[27]

そこから聞こえる言葉は、

豊かな洞察へと変容していく。

 

貧しき者たちに、豊かな施しを。

天にも届く信仰が試されるときであっても、

一人のキリスト者としての生を。

言え、それが賞賛に値しないかどうかを。

そのような美しい姿から、

私は君の功績を褒め称える。ああ、だがしかし、

君の生涯を描き尽くすには、

私の筆先は、あまりに貧弱なようだ。

 

 

 

[1] カドルツブルク Cadolzburg が街の名称として正しく、ニュルンベルクの西約20kmに位置している。ピゼンデル自身はCadlsburgと出身を書いていたことから、それが他者によってCarlsburgと取り違えられた可能性を、ケップは指摘している(Vgl. Köpp, Johann Georg Pisendel, S. 34)。

[2] 領地は、アンスバッハ侯領、もしくはブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯領として表現される。当該の辺境伯は、ゲオルク・フリードリヒ2世(1678-1703)を指す。なお、ヒラーはその地名を一貫して「アンスパッハ Anspach」と表記しているが、本文においては全て、当地の今日における正書法を日本語で発音した際の表記として妥当である、アンスバッハで統一した。

[3] ジュセッペ・トレッリ(Giuseppe Torelli, 1658-1709)。後述の通り、独奏協奏曲の形式的基礎を整えた人物として知られている。

[4] アントニオ・ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi, 1678-1741)。のちに本文で触れられている通り、1716年から1717年初頭にかけピゼンデルは彼のもとで、ローマやナポリ訪問に伴う中断を挟みながらもヴァイオリンを学んだ。トレッリによって整えられた独奏協奏曲の形式はヴィヴァルディによって、とりわけ1703年のアムステルダムにおける協奏曲集《調和の霊感 L'estro Armonico》の出版によってヨーロッパ中に普及し、共有されることになった。彼はその後も、《和声と創意の試みIl cimento dell'armonia e dell'inventione》といった協奏曲集の出版を通して、またピゼンデルら弟子による作品の写譜を通して、同時代の、特にドイツ地域の作曲家に大きな影響を与えた。ピゼンデルは、出版では知られていなかったヴィヴァルディの作品を多くドレースデンに持ち帰り、宮廷楽団の演奏レパートリーにそれらを加えている(Vgl. Gerhard Poppe (Hrsg.), Schranck No: II: Das erhaltene Instrumentalmusikrepertoire der Dresdner Hofkapelle aus den ersten beiden Dritteln des 18. Jahrhunderts (= Forum Mitteldeutsche Barockmusik, Band 2), Beeskow 2012, S. 199-200. 

[5] J. S. バッハは1708年に、ヴァイマール宮廷からオルガニスト及び室内楽奏者として地位を打診され、当地に移り住んできていた。

[6] トレッリの作品の中に該当するものは発見できておらず、ヘ長調で同様の開始をする、トマゾ・アルビノーニ(Tomaso Albinoni, 1671-1751)のヴァイオリン協奏曲のことを指すのではないかとユングは指摘している(Vgl. Hans Rudolf Jung, Johann Georg Pisendel (1687-1755). Leben und Werk. Ein Beitrag zur Geschichte der Violinmusik der Bach-Zeit, Diss. Jena 1956, S. 11)。この作品は1728年、イギリスの出版業者ジョン・ワルシュ(John Walsh, 1665-1736)のもとで発行されたHarmonia Mundi […] The 2.nd Collectionの第3曲目を構成している(Vgl. Köpp, Johann Georg Pisendel, S. 62-63)。

[7] メルキオール・ホフマン(Melchior Hoffmann, 1679-1715)。彼は1713年からその翌年にかけて、ハレの聖母教会のオルガニストの地位をJ. S. バッハと争っている。バッハがヴァイマール宮廷から慰留されたこともあり、彼が一応オルガニストに内定したものの、ライプツィヒにおける職務の整理がつかず、最終的にその地位はゴットフリード・キルヒホーフ(Gottfried Kirchhoff, 1685-1745)に渡った。Vgl. Christoph Wolff, Johann Sebastian Bach: The Learned Musician, Oxford u. a. 2001, S. 152-154.

[8] 実際に存在した塹壕ではなく、コレギウム・ムジクムが音楽活動を行っていた施設の名称、もしくは通り等の名称のようである。Vgl. Köpp, Johann Georg Pisendel, S. 65-66.  

[9] クリストフ・グラウプナー(Christoph Graupner, 1683-1760)。ライプツィヒで大学に通いながら音楽の研鑽を深めたのち、1705年からはハンブルクのオペラ座でチェンバロ奏者を務めた。1709年以降は、ヘッセン=ダルムシュタット方伯の宮廷楽団に地位を得て、1711年には楽長位を得た。1400曲にのぼる教会カンタータを筆頭に、オペラから室内楽曲に至るまで、幅広く作曲した。

[10] ザクセン選帝侯国は、1697年から1763年まで、1704年から1709年の一時期を除いて、ポーランド・リトアニア共和国と同君連合を形成し、選帝侯が共和国王を兼ねる形をとった。それに伴い、同君連合成立後直ちに、宮廷楽団がワルシャワにも新たに設置されることになったが、ドレースデンに設置されていた宮廷楽団に比べてその編成は小規模にとどまった他、楽長職も基本的には設置されず、ドレースデン側にのみ置かれた。Vgl. Alina Żórawska-Witkowska, “The Saxon Court of the Kingdom of Poland”, in: Music at German Courts, 1715-1760: Changing Artistic Priorities, hrsg. von Samantha Owens, Barbara M. Reul und Janice B. Stockigt, Woodbridge 2011, S. 51-77, hier S. 53-57 und 74-77.

[11] 本文ではFlorelliと表記されているが、正しい綴りはFiorelliである。Vgl. Köpp, Johann Georg Pisendel, S. 310.

[12] ヨハン・クリストフ・シュミット(Johann Christoph Schmidt, 1664-1728)。1697年から、ポーランド王国およびザクセン選帝侯国宮廷楽団の楽長を務めた。この地位は、ピゼンデルと同じくヴェネツィアに留学した経験を持ち、ドイツにおける「コンチェルト様式 Konzertierender Stil」の発展に重要な役割を果たしたハインリヒ・シュッツ (Heinrich Schütz, 1585-1672)によって、1615年から1672年まで担われていたものである。

[13] この劇場は現存し、マリブラン劇場の別名を持っている。後者のサンタンジェロ劇場と並んで、バロック期のヴェネツィアにおけるオペラ上演で重要な役割を果たした。

[14] A. ヴィヴァルディによる協奏曲ヘ長調(RV 571)。Vgl. Köpp, Johann Georg Pisendel, S. 93.

[15] 第3楽章の終盤、ヴァイオリン独奏声部に以下の譜例のような部分を確認することができる(第130〜第140小節。譜例省略)。各々の小節の最初の連桁に振られた数字は訳者によって想定された指番号であり、それが○で囲まれている場合、ポジション移動が行われていることを示す。指番号の上に適宜振られたアルファベットは弦をさす。当時奏者は、第130小節から137小節までは第1ポジションから第3ポジションへ徐々に上がりながら、走句を上3弦(E、A、D線)で演奏し、138小節目で当時としてはかなり高位置のであるといえる第5ポジションにまで移動し、第139小節目以降の高音域に備えたと考えられる。

[16] ケップによれば、ピゼンデルを正式にコンサートマスターとして記載している文書の初出は、1731年10月1日である(Vgl. Köpp, Johann Georg Pisendel, S. 130 und 142-146)。

[17] 本文で言及されているオペラが、具体的にどの作品を指すのかは特定できない。

[18] イタリアとフランスの双方の音楽様式に通じることは、そのどちらをも母国としないドイツ人であるからこそ可能となり、両者の様式を折衷した「混合趣味」に基づくことによって、ドイツ人は音楽においてその強みを発揮できるとする考えが、18世紀前半のドイツで形成されていった(Vgl. 吉田寛『民謡の発見と〈ドイツ〉の変貌――十八世紀』(=〈音楽の国ドイツ〉の系譜学、第2巻)、東京 2013年、75-118頁。18世紀中葉までのドイツにおける「混合趣味」の定義、およびそれへの同時代的評価の変遷の過程が詳細に検討されている)。この経歴の著者と推定されるJ. F. アグリーコラのベルリン宮廷における同僚であったJ. J. クヴァンツは『フルート奏法試論』の中で、この「混合趣味」をドイツの趣味と言えるであろうとしただけでなく、両者の音楽様式を勤勉に学ぶ過程で築かれた基盤によって、今やドイツではイタリア、フランスのどちらでも好まれる趣味を持った音楽が展開されるようにまでなったとし、これらの国々に対するドイツの音楽様式的優位性を、自信を持って表明している(Vgl. Quantz, Versuch einer Anweisung, S. 332)。この『試論』の実際の著者に関しては、翻訳前に訳者が設けた解説中の註29を併せて参照。

[19] J. A. ハッセのオペラ《クレオフィーデ》の初演(1731年9月13日)を指す。

[20] 著者はここでとりわけ、J. G. グラウンおよびF. ベンダを意識していたのではないかと考えられる。両者はプロイセン王フリードリヒ2世の宮廷楽団でコンサートマスターとプレミア・ガイガーを務め、共にフリードリヒから厚く信頼されていたヴァイオリン奏者であった。F. ベンダに関しては、J. A. ヒラーによって書かれた彼の経歴の邦訳が、『ICU比較文化』第50号中で既に紹介されている。J. G. グラウンはピゼンデルの弟子として、またF. ベンダは師弟関係こそ持たなかったものの友人として、彼のヴァイオリン技法を学ぶ機会を持っただけでなく、ともにアダージョの名手として知られていた(Vgl. Henzel, Berliner Klassik, S. 313-314)。18世紀中葉の北ドイツ、特にベルリンでは、超絶技巧に通じることではなく、アダージョの演奏を美しく行える者こそが、真に優れた音楽家であると見做されていたことが、例えばJ. J. クヴァンツの著作内で明らかにされている(Vgl. Quantz, Versuch einer Anweisung, S. 136)。

[21] ヨハン・ゴットリープおよびカール・ハインリヒ・グラウン。前者はコンサートマスター、後者は宮廷楽長を、共にプロイセン王フリードリヒ2世の宮廷楽団で務めた。

[22] Vgl. Johann Joachim Quantz, „Herrn Johann Joachim Quantzens Lebenslauf, von ihm selbst entworfen“, in: Friedrich Wilhelm Marpurg (Hrsg.), Historisch-Kritische Beyträge zur Aufnahme der Musik, drittes Stück vom ersten Band, Berlin 1755, S. 197-250.

[23] この4つのオペラとは、C. H. グラウンによる《ウティカのカトー》、《アルタセルセ》、《ロデリンダ》、およびJ. A. ハッセの《ティトゥスの慈悲》であったことが、後にJ. A. ヒラーによって再び書かれたピゼンデルの経歴中で追加報告されている(Vgl. Hiller, „Pisendel (Johann George)”, S. 198)。また、Henzel, „Zu Den Aufführungen der Grossen Oper “, S. 48 も参照。

[24] ケップは、この友人が本経歴の著者であると推定されるJ. A. アグリーコラを指すとしている(Vgl. Köpp, Johann Georg Pisendel, S. 20-21)。翻訳前に設けた訳者による解説も併せて参照。

[25] テーレマンがライプツィヒを去ったのが1705年であったことからケップは、この「数ヶ月」という表現はテーレマンの記憶違いに起因するものであろうと推測している。Vgl. Köpp, Johann Georg Pisendel, S. 62.

[26] ケップはこのオペラを、1709年にテーレマンによって、復活祭の時期に作曲された《マリオ》ではないかと推測している。Vgl. Köpp, Johann Georg Pisendel, S. 62.

[27] この註には、それ以前の註でつけられていた*)ではなくa)という印がつけられており、またそれが、この経歴の掲載元である週刊誌『音楽に関する週刊の報告と所見』の編集者J. A. ヒラーによるものであることが明記されている。この事実は、本経歴の著者がJ. A. ヒラー本人ではないとするケップの仮説の論拠の一つを構成している。この点については、翻訳前に設けた訳者による解説を参照。

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