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フランツ・ベンダの作品*

*以下の文章は、本協会長がレーゲンスブルク大学に提出した未出版の修士論文『フランツ・ベンダ(1709-1786)の原資料--ベンダ研究への資料学的基礎付け』(本文ドイツ語)から、17-25頁の内容を抜粋・要約したものです。なお、日本語版に脚注はなく、本文のみが翻訳されている点にご留意ください。 

彼の作品の大部分は、特にヴァイオリンのための器楽曲から構成されている。 彼の自伝によると、ベンダは1763年4月までに約80のヴァイオリン・ソナタ、15の協奏曲、いくつかのシンフォニー、またかなり多くのカプリッチョを作曲した。 自伝によると、宮廷オーケストラでの職務が多忙であったため、ベンダは「この12年間、ほとんど作品を完成させることができなかった」。 しかし、彼の作品のほとんどが本当に1751年までに作曲されたのかどうかは、疑わしい。なぜなら、リーによって編纂されたカタログによれば、138のヴァイオリン・ソナタの作曲者を、真正に彼とみなすことができるからである。 自伝の記述と比較した際のこの不一致は、1763年以降に、ベンダがなお50以上のソナタを作曲したことを意味しているのかもしれない。同時に、新たに発見された資料は、リーのカタログにおける一部の作品帰属判断の信憑性に、疑問を投げかけている。

ベンダのシンフォニー、協奏曲およびソナタの作曲に際して用いられている形式は、宮廷楽団における彼の同僚たちによって使用され、洗練されたものに基づいている。チャールズ・バーニーは、ベンダの作曲・演奏様式を「独自のもの」として報告しているが、ベンダがベルリンの前古典的な様式から、影響を強く受けたことは明らかだ。一方で、彼の作曲したカプリッチョには、特異性を見いだすことができるかもしれない。ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)の『平均律クラヴィア曲集』のように、彼のカプリッチョからは教育的志向を強く読み取ることができるし、ほとんどすべての可能な調性で作曲が試みられている。ベンダは青年期に至るまで、優れた歌手としても知られていたが、歌曲は3つしか残していない。しかし、歌手としての彼の経験は、作曲に際して大きな役割を果たしたものと考えられる。なぜなら、自伝によると彼は、常に「歌唱的に書く」ことを試みたからだ。一方で、他のベルリンの同僚たちもまた、「歌唱性 Singbarkeit」を伴って作曲することを目標としていた。

1.シンフォニー

リーは、10のシンフォニーを真正なベンダによる作品とした。各シンフォニーで「急-緩-急」の三楽章制が採用されている。これは18世紀、イタリア趣味に基づくシンフォニー、すなわち「イタリア風序曲」の作曲において、典型的に用いられた手法である。 ベンダのシンフォニーを、ウィーン古典主義においてその形式が整備・確立される交響曲と同列に考えることはできない。4楽章制を採った例もなければ、ソナタ形式を作中に観察することもできない。

 

2.協奏曲

リーは、18の協奏曲を真正なベンダによる作品とした。 ベンダの協奏曲はすべて、いわゆる「ヴィヴァルディ的協奏曲の類型 der vivaldische Konzerttypus」に拠って作曲されている〔筆者による註:後述の通り、この用語は実態を正確に示していませんが、術語としてその指し示す内容は、音楽学の領域においては精確に理解されているといえます〕。これは、ベルリンの宮廷楽団における同僚たち、特にヨハン・ヨアヒム・クヴァンツとグラウン兄弟によって整備され、洗練されていったものである。トビアス・シュヴィンガーは、ジュゼッペ・タルティーニ(1692-1770)の協奏曲をモデルにしたグラウン兄弟による協奏曲作曲の雛形が、ベルリンにおける鍵盤楽器の独奏協奏曲の出現に大きな役割を果たしたとしている。多くの協奏曲の作曲に際し、クヴァンツもまた、このタルティーニによる作曲類型を用いたことで、このモデルは、独奏協奏曲の作曲において一般的に採用されるようになっていった。このパターンでは、協奏曲は3つの「急-緩-急」楽章から構成され、リトネッロ形式が各々の楽章の作曲に際し用いられた。

 

ベンダの作品中に、二つ以上の独奏楽器のための協奏曲、コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)、また4楽章制で作曲された室内協奏曲などは存在しない。彼の協奏曲の編成規模も、概して大きくはない。基本的に独奏楽器は、常に弦五部と通奏低音の伴奏を伴う。ニ長調の協奏曲(L:II-2)には、ヨハン・ゲオルク・ピゼンデルによって追加で作曲されたと考えられる二声のホルン・パートが伝承されている。ベンダが「急速さや高音域、そして他のあらゆるヴァイオンの難しさに対処できる考えられうる限りの技巧を有して」いたという事実は、いくつかの協奏曲における超絶技巧的なパッセージから推し量ることができる。しかし同時に、彼の「高貴な歌唱性」もまた、同時代人からかなり高く評価されていた。 ベンダが緩徐楽章においてだけでなく、急速楽章においても歌唱性を伴った演奏および作曲を試みたことは、とりわけ注目に値する(例えばL:II-4および5の第1楽章)。協奏曲の独奏楽器としては、基本的にはヴァイオリンが常に前提とされているが、一部の協奏曲の独奏声部はフルートでも演奏可能であり、フルート協奏曲としての異稿が伝承されている(L: II-4、9、10、15および16)。今日まで残されている筆写譜のうち三点は、その成立、筆写もしくは演奏の日付を伝承しているが、協奏曲全てを対象として、その作曲順序を正確に推定することは困難である。

♪推薦音源♪

フルート協奏曲ニ短調 (L:II-4、本来はヴァイオリン協奏曲ニ短調として作曲された)

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ヴァイオリン協奏曲変ホ長調(L:II-5)

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3.ソロ・ソナタ

ベンダの主な作品はソロ・ソナタだった。リーは、139のソロ・ソナタの真正な作曲者をベンダとしている。 ソナタL: III-61を除き、他のすべてのソロ・ソナタはヴァイオリン・ソナタとしての稿を伝承している。 すべてのソロ・ソナタは常に3楽章制で作曲されており、それぞれ1つの遅い楽章と2つの速い楽章から構成されている。ベンダの作品の場合、楽章は緩-急-急の順に配置されていることが多い。 このような配列は、タルティーニが彼のソロ・ソナタで採用した楽章配列に遡るもので、1740年頃から、ベルリンの宮廷音楽家たちは彼らのソロ・ソナタの楽章配置に際し、好んでこの配列を採用した。 ベンダは、4楽章制の室内ソナタや教会ソナタは作曲していない。

 

最初の急速楽章は、二部形式によって作曲されている。その中には、のちのソナタ形式において見られる「プロトタイプ」が、すでにその萌芽を覗かせている。2つ目の急速楽章は、同じく二部形式を採るか、二部形式による短いテーマに基づいたいくつかの変奏を伴う場合が多い。

彼の協奏曲とソロ・ソナタは、二つの異なる特徴を、それらの内に内包している。すなわち、超絶技巧と歌唱性だ。クリストフ・ヘンツェルは、そのような異なった特徴の「統一」を、J. G. グラウンのヴァイオリン・ソナタにおいても読み取ることができるしている。 疑いなくベンダは、グラウンのソロ・ソナタの作曲モデルを、雛形として採用している。J. G. グラウンは、ベンダより1年早くプロイセン皇太子フリードリヒに仕え始め、作曲と演奏技術に関して、多くをベンダに教えた。 ベンダが急速楽章をも、歌唱性を伴って作曲しようと試みたことは、とくに注目に値する(音源としてあげたL:III-25および34を参照)。 

♪推薦音源♪

ヴァイオリン・ソナタ ニ長調(L:III-25)

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ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調(L:III-34)

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4.トリオ・ソナタおよび二重奏曲

多くの作曲例があるソロ・ソナタの分野とは対象的に、ベンダはトリオ・ソナタをほとんど作曲していない。リーによると、作曲者を疑いなくベンダに帰すことができるトリオ・ソナタは、2作品だけである。 ベンダ自身、鍵盤楽器の習得を始めた時期が遅かったため、対位法にあまり精通することができなかったと自伝の中で述べている。 トリオ・ソナタの作曲には対位法の素養が不可欠であるため、ベンダがこの分野で多くの作品を残していないことは、全く不自然でない。

二重奏曲もまた、ベンダの作品中で主要な位置を占めていない。 リーは、セットで伝承されている22の二重奏曲のみを、ベンダの真作とみなしている。 ベンダを作曲家名として伝承している他の二重奏曲は、その大部分が弟のヨーゼフ・ベンダ(1724-1804)によって作曲されたと考えられている。すべての二重奏曲は、2つのヴァイオリンのために作曲された単一楽章の作品で、低音声部は設定されていない。

5.カプリッチョ

リーは67のカプリッチョを、真正に作曲者をベンダに帰すことができるとした。 リーのカタログにおいては、ベルリン・ジングアカデミー図書館に所蔵されていた19のカプリッチョは失われたとされているが、これらは現在、再発見されている。カプリッチョは、単一楽章制を取り、自由な様式によって作曲されている。

ベンダのカプリッチョが、その目的として教育を強く志向していることは、内容から明らかである。例えばそれらは、急速なパッセージや重音の練習に、効果的であったと考えられる。また作曲に際し、ベンダは時に、彼の時代には滅多に使用されることがなかった調性を選択している例えば、嬰ハ長調や変ロ長調など)。 これは、様々な調性で演奏ができるようになるという、練習者にとって長所となる点を含んでいる。こうした志向は、ヨハン・セバスチャン・バッハによる2冊の『平均律クラヴィア曲集』でも、すでに試みられていたことだ。バッハは、考えられる24の調すべてに作曲し、体系的な鍵盤楽器教育をそこで試みた。

レオポルド・モーツァルト(1719-1787)による『ヴァイオリン教程』のように、ベンダのカプリッチョは、少なくとも彼の弟子たちの間では、教材として広く用いられていたことだろう。 1805年、ヨハン・フリードリヒ・ライヒャルトは、いくつかのベンダのカプリッチョの出版に際して、「彼〔ベンダ〕のまだ生きている弟子たちと、そうしたものたちの弟子たちは、この綺麗な状態〔で出版される〕楽譜を感動することなく眺め、また喜ぶことなく手に取るようなことはないでしょう」と報告している。 ライヒャルトによれば、ベンダのカプリッチョは難しい演奏技術のための練習教材としてだけでなく、ベンダが協奏曲とソナタの作曲で、それらとの「統一」を試みた歌唱性を養うためにも効果的である。 「〔ベンダのカプリッチョ〕は、この壮麗な楽器のまことの本質を〔演奏を通じて示すと〕考えられるだけでなく、〔その出版は〕、その楽器〔ヴァイオリンが奏でることによって〕喜ばしく享受した、最も純粋で感動を呼び起こす源となっている甘美で深遠な穏やかさの、純粋かつ力強い活字化なのである。」

 

6.歌曲、その他の作品

ベンダは若い頃、卓越した歌手としても知られていたが、歌唱作品の作曲例はほとんどない。唯一の確認できる例外は、 クリスチャン・ゴットフリード・クラウゼ(1719-1770)によって編纂された歌曲集へ収録された3作品である。 他に、軍楽用マーチ1作品が、ベンダによって作曲されたとされている。

[1] Benda, „Autobiographie“, S. 154.

[2] Ebenda, S. 153.

[3] Lee, A Thematic Catalogue, S. 23-87.

[4] “Of all the musicians which have been on the service of Prussia, for more than thirty years, Carl. P. E. Bach, and Francis Benda, have, perhaps, been the only two, who dared to have a style of their own; the rest are imitators…” vgl. Burney, The Present State of Music, S. 231.

[5] Hiller, „Lebenslauf des Herrn Franz Benda“, S. 199.

[6] Lee, A Thematic Catalogue, S. 139.

[7] Benda, „Autobiographie“, S. 159.

[8] In seinem Versuch habe Quantz die Meinung dargestellt, dass „jeder Instrumentalist sich bemühen“ müsse, „das Cantable so vorzutragen, wie es ein guter Sänger“ vortragen würde (vgl. Johann Joachim Quantz, Versuch einer Anweisung die Flöte traversiere zu spielen, Berlin 1752 (Nachdruck Wiesbaden 1988), S. 110). Carl Philipp Emanuel Bach habe in seiner Autobiographie berichtet, dass sein „Hauptstudium besonders in den letzten Jahren dahin gerichtet gewesen“ sei, „auf dem Clavier, ohngeachtet des Mangels an Aushaltung, so viel möglich sangbar zu spielen und dafür zu setzen.“ (vgl. Carl Philipp Emanuel Bach, „[Autobiographie]“, in: Carl Burney’s, der Musik Doctors Tagebuch seiner musikalischen Reisen, übersetzt von Christoph Bode, dritter Band, Hamburg 1773, S. 199-209, hier S. 209).

[9] Lee, A Thematic Catalogue, S. 1-6.

[10] Ludwig Finscher, Art. „Symphonie, die italienische Opern-Sinfonia im 18. Jahrhundert“, in: MGG2, Sachteil 9, Sp. 20-24, hier Sp. 21.

[11] Ebenda, Sp. 21.

[12] Schwinger, Die Musikaliensammlung Thulemeier, S. 486-489 und 501-504.

[13] In der Forschung Ten-Brinks steht die Formanalyse aller zu Quantz zugeschriebenen Konzerte zur Verfügung. Vgl. Meike Ten Brink, Die Flötenkonzert von Johann Joachim Quantz: Untersuchungen zu ihrer Überlieferung und Form, Teil 2, Hildesheim u. a. 1995.

[14] Die Formanalyse des Konzerts wurde von der Bachelorarbeit, die vom Verfasser vor drei dargelegt wurde, direkt zitiert. Vgl. Nobuaki Tanaka, Franz Benda’s Concerto L:II-4: A Study on the Sources and Style (Unveröffentlichte Bachelorarbeit, die bei der International Christian University in Tokyo im Juni 2016 eingereicht wurde), S. 38.

[15] Auf dem Titelblatt von D-Dl Mus. 2981-O-1 steht 1739 Rheinsberg, von D-Dl Mus- 2981-O-2 steht 1740 im April (vgl. Lee, A Thematic Catalogue, S. 11-12). Die beiden Datierungen müssten die Kompositionsdaten anzeigen, da die beiden Kompositionen auf den sächsischen Papiern niedergeschrieben worden sind, demzufolge müssten sie daher in Dresden herum hergestellt worden sein. Auf der Solostimme von D-WRl HMA 3832 stehen „den 6. Dec: 1775“ und „den 12. Mart: 1777“, die die Aufführungsdaten anzeigen sollten (vgl. die Quelleninformation im RISM-OPAC, unter https://opac.rism.info/metaopac/singleHit.do?methodToCall=showHit&identifier=251_SOLR_SERVER_1770386454&curPos=2 verfügbar ist [Stand: 15. 06. 2019]).

[16] Finscher, Art. „Symphonie“, Sp. 21.

[17] Christoph Henzel, „Vorwort“, in: Johann Gottlieb Graun, Acht Violinsonaten (= Berliner Klassik, Serie A/Kammermusik/Band I), Beeskow 2005, S. XI.

[18] Benda, „Autobiographie“, S. 159.

[19] S Skma 2V-R: 22 Duos / pour / Deux Violone / par / Frans Benda / Violino 2do [Imo]. Vgl. Lee, A Thematic Catalogue, S. 103-106.

[20] Johann Friedrich Reichardt, „[Besprechung zu Etude de Violon ou Caprices; Oeuvre posthume]“, in: Jenaische Allgemeine Literaturzeitung 2 (1805), Band 4, Nummer 282, Sp. 390-391, hier Sp. 390

[21] Ebenda, Sp. 390.

[22] Die Sammlung wurde 1753 erschienen und enthält insgesamt 31 strophischen Lieder, die von damaligen bedeutenden Musikern in Berlin vertont wurden (z. B. Quantz, C. P. E. Bach). Benda vertonte 17., 22. und 25. Lieder. Vgl. Lee, A Thematic Catalogue, S. 139-140.

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