みなさま、
記事をご覧いただきありがとうございます。
まもなくクリスマスですね。私が暮らしているドイツではこの時期、クリスマスマーケットが催され、街に明るさがもたらされます。同時に、人々の心もどこか普段より明るく、また優しくなっているように感じます。キリスト教の人々が、イエスが光として地上にやってきたと信じるように(ヨハネ第1章)、この時期、人々の心はいつになく優しい光に包まれているように思えます。
クラシック音楽がお好きでよく聞かれる方は、この時期になるときまって、J. S. バッハの《クリスマス・オラトリオ》や、ヘンデルの《メサイア》を主演目に据えた演奏会が多数催されることをご存知だと思います。これらが名作であることに疑いの余地はありませんが、たまには違った作品に耳を傾けてクリスマスを過ごしてみませんか、というのが私の提案です。これらの作品はすでに多く演奏され、今後きっと何度も聞く機会があるでしょうから、1回ぐらいは他の作品をちゃんと聞いてみるというのも、悪くないはずです。
☆
カール・ハインリヒ・グラウン作曲
《クリスマス・オラトリオ》
C. H. グラウン(1703/04-1759)は、18世紀中頃、ドイツを代表するオペラ作曲家とみなされ、ヨハン・アドルフ・ハッセ(1698-1783)と並び、非常に人気が高かった音楽家の一人です。1740年以降、プロイセン王室の宮廷楽団で宮廷楽長を務め、現在までその建物が残っているベルリン国立歌劇場の初代監督でもあります。その頃のプロイセン王は、その業績ゆえに大王とも呼ばれるフリードリヒ2世で、本協会がメインで扱う作曲家、フランツ・ベンダも、彼の宮廷楽団の一員であったことから、ベンダとグラウンは同僚という関係でした。グラウンやハッセによるの音楽の特徴の1つは、それまでの「ゴツゴツ」とした通奏低音技法から徐々に離れたバス声部の上に、流麗な旋律を、歌詞の意味に合わせながら展開していくというところにありました。
その特徴をよく表しているのが、作品の中盤に現れる、イ長調のアリアです♪(←音楽へ。クリック)。たとえ歌詞を知らなかったとしても、このアリアが全体として、何かとても喜ばしいことを表現しているのだろうということが、一聴しただけでわかることでしょう。このダ・カーポ・アリア(A-B-A)の前半部分、つまりAの部分につけられた歌詞は、こうなっています。イエスの誕生と、彼を自らの子として地上へ遣わした、父なる神への感謝を読み取ることができます。
Die Sterblichkeit gebiert das Leben.
Gott nimmt das Bild der Menschen an.
Was kein Geschöpf begreifen kann,
geschieht: Gott kommt zu mir auf Erden.
死すべき運命が〔新たな〕生を産む。
神が人の姿をとって。
ひとが理解し得ないことが
起こる。神が地に、私のもとへ。
この《クリスマス・オラトリオ》は、グラウンがプロイセン王室の宮廷楽長としてオペラを取り仕切るようになった1740年より前、まだ彼がブラウンシュヴァイクという街で副楽長をしていた1730年代に作曲されたと考えられています。ですから成立としては、バッハの《クリスマス・オラトリオ》とほとんど同時期であると考えられるのです。ここで、冒頭合唱の聴き比べをしてみましょう。♪グラウン ♪バッハ
事情通の方は、バッハが当時、グラウンに比べ低く評価されていたことをご存知かもしれません(J. A. シャイベによる批判)。この批判は、主にバッハの対位法的作品についてなされたものですが、実のところグラウンも、バッハに退けをとらない対位法の大家であったので、この批判を「対位法作品」という対象に限定して考察すると、バッハもグラウンも似たり寄ったりの、シャイベに言わせれば「自然に反する」作品を書いていたということになり、この批判は自己矛盾をきたしていることが明らかになります。
このとき、シャイベの頭の中で想定されていたグラウンの作品とは、疑いなく彼の「旋律的な」作品、とくにオペラやオラトリオのアリアであったと考えられます。そうした視点から、バッハとグラウンの作品を聴き比べてみるとき、私たちは同時代的な評価、つまりグラウンの方がバッハに比較して優れているというそれに、全面的な反対を表明することが難しいということに、気づかされます。
私は、バッハの《マタイ受難曲》について包括的に解説を試みた礒山雅先生の著書をきっかけに、音楽学の道を志しましたので、バッハの作品を貶めようとも、またその価値を低く評価しようとも思いません。ただ、グラウンの作品を聞き、またバッハの作品も聞いた上で概して言えると思われることは、バッハのドイツ語の扱いは、ドイツ語を母語とするものにとっては、幾分かしつこく、また作為的に感じられただろう、ということです。
同時代人にとって心地よく、また巧みに感じられたであろうグラウンの音楽におけるドイツ語の扱いは、たとえばこのアリアの中に見て取ることができます。とても美しい旋律を持つホ長調のアリアです♪。最初に紹介したアリアと同様、ダ・カーポ・アリアの形で作曲されており、A部分の歌詞は、以下のようになっています。
Ew’ger Sohn, erhaltner Segen,
ach, verkläre dich in mir.
Glaub und Liebe seufzt nach dir,
um dein Bethlehem zu sein.
永遠なる御子、受け入れられた祝福よ、
ああ、私のうちに現れ出てください。
信仰と愛が、あなたへ向かってため息をつく、
あなたのベツレヘム〔としてふさわしく〕あるために。
この「ため息をつく seufzen(ゾイフツェン)」という語に対しては、下降音型が設定されることが通例です。その語義から明らかな通り、この語はネガティヴなニュアンスを持つため、下降音型の設定は全く理にかなっています。グラウンはしかし、この語が文脈的にはネガティヴな要素を持っておらず、むしろ神への宗教的憧れを表現するポジティヴな語としてここでは機能していること、また、この語に対して下降音型が設定されることが典型的であることを逆手にとってか、あえて上昇音型をこの語「seufzen」に対して設定している箇所があります。一方でグラウンは、語義の表現も疎かにせず、息を吐くかのような十六分音符のスタッカートのモチーフを、伴奏部分に挿入しています。以下の譜例で、ご確認ください。
このアリアの中で私たちは、バロック期を通じて一貫して重視されてきた、言葉と音楽の一致というテーゼの中で形作られた2つの理論体系、すなわち「フィグーレンレーレ」と「アフェクテンレーレ」の結合を見て取ることができるでしょう。フィグーレンレーレ(Figurenlehre: Figureは「型」のこと。Lehreは理論体系)の観点から見れば、ため息という語は、十六分音符のスタッカートのモチーフによって表現されており、アフェクテンレーレ(Affektenlehre: Affektはいうなれば「感情」)の観点から見れば、ここで「ため息」は単なる辞書的な語義の表現にとどまらない、文脈的な意義も内包した上で、音楽化されていると、考えることができるからです。
☆
さて、グラウンの《クリスマス・オラトリオ》から何曲かお聞きいただきました。この作品が、バッハやヘンデルのそれと比べて、明らかに見劣りがするような代物では決してなく、むしろ美しい旋律を多く持つ、素晴らしい作品だということを、皆様に知っていただけたのではないかと思います。
全曲を聴き、また歌詞を通読した者として言わせていただければ、この作品は総演奏時間も70分前後と長すぎず短すぎないばかりか、歌詞が各場面を写実的に描くことに成功しているため、まるで映像を見ているかのように展開していきます。一方、アリアの歌詞はイエス誕生への喜びがその中心的題材となっていることが功奏し、総じて「わかりやすい」作品に仕上がっているのです。私としてはこの作品がもっと広く知られ、演奏されるようになってほしいのですが、この作品のスコアやパート譜の出版は、現在ドイツのオルトゥス音楽出版によってのみ請け負われているため、それらの入手は日本ではあまり容易ではありません。
とりあえず、来年のクリスマスまでには歌詞の日本語訳を作るべく、作業にかかろうと思います。そうすれば、今回は一部しか紹介できなかったこの作品を、次回は全て聴いて楽しんでいただくということが、可能になると思うからです。
「たとえグラウンが、受難オラトリオ《イエスの死》以外に何も作曲していなかったとしても、見識ある者がいる限り、彼は必ず忘却の彼方から救い出されるだろう」
これは1767年、ヨハン・アダム・ヒラー(1728-1804)が神学者ヨハン・クリストフ・シュトックハウゼン(1725-1784)の言葉として、自身が発行していた週刊の音楽雑誌で紹介したものです。ここで触れられている《イエスの死》は、今日グラウンの作品の中で最も演奏機会に恵まれ、少なくともドイツ語圏においてはある程度は知られている作品ですが、グラウンは概してなお「忘却の彼方」にあります。このシュトックハウゼンの予言は残念ながら、まだ正確なものとはなっていません。
みなさま、ご精読いただき、ありがとうございました。よいクリスマスの時をお過ごしください。Frohe Weihnachten!
Als direkter Nachkomme des Komponisten, freut es mich sehr, diese Seite und die Gesellschaft entdecken zu können. Da das Datum von 2019 ist, würde mich natürlich interessieren, wie die Forschung fortgeschritten ist. Erst einmal Danke im Namen der Familie. Grüße Dagmar Zeising